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吉岡堅二 「鉄線花」 P6号


























   
 作家名  吉岡堅二  
 タイトル  鉄線花
 技法  紙本・彩色
 サイズ  P6号  40.5x27cm
 額サイズ  60x46.5p
 サイン  作品左下落款・印章。額縁裏面に共シール貼付。 
 状態  作品の状態は、良好です。額装(仁科一恵堂製)には、若干の小粒シミがあります。茶紙箱・黄袋付き。
 略歴


吉岡堅二 ヨシオカ, ケンジ

1906年 10月27日、東京市本郷区に吉岡華堂、常子の次男として生まれる。
    父華堂は、寺崎広業門下の日本画家で、のちに大阪芸術大学教授となった染色家吉岡常雄は実弟
    である。
1921年 京華商業学校を中退し、父と広業門で同門の野田九浦に入門、その画塾居仁洞で学ぶ。
1922年 中央美術社第3回展に「たそがれ」が入選。
1925年 油彩で自画像を描くなど、洋画も吸収しつつ、
1926年 第7回帝展に「松上白鶴」が初入選する。
1930年 第11回帝展「奈良の鹿」、第14回帝展「小憩」はともに特選を受賞した。
    しかし、1931年の第1回独立美術協会展におけるフォーヴ的な傾向に大きな刺激を受けたころから、
    日本画の革新へと大きく転回し、
1934年 2月、まず青龍社を脱退した福田豊四郎らと美術人社を結成、 季刊の『美術人』
    (翌年の第3号で終刊)を刊行する。
    次いで6月、福田豊四郎、小松均らと山樹社、さらに岩橋英遠らと新日本画研究会を結成。
1938年 新日本画研究会のメンバーを中心として新美術人協会を結成し大胆なフォルムを見せる
1935年 師九浦の塾展煌土社展にも第1回「熱帯植物と蟻」、
1939年 新美術人協会第2回展「馬」、煌土社展第5回「駱駝」などを出品、若手作家らによる昭和の日本画
    革新運動の中心的作家の一人として活躍する。
1940年 新美術人協会第3回樺太旅行から取材した「氷原」などを発表する。
1948年 山本丘人、上村松篁らと「世界性に立脚する日本絵画の創造」をうたって創造美術を結成。
1949年 創造美術第2回展「湿原」により1951年毎日美術賞、
1950年 創造美術第3回「楽苑」により1951年芸能選奨文部大臣賞を受賞した。
1951年 創造美術が新制作派協会に合流し新制作協会日本画部となってからは同会に出品、
1960年 新制作派協会第24回「化石化する鳥」、
1963年 新制作派協会第27回「鳥の棲む遺跡」、
1970年 新制作派協会第34回展出品作「鳥碑」により1971年日本芸術院賞を受賞した。
1972年 新制作派協会第36回「双龍屏風」などを発表し、
1974年 新制作派協会日本画部会員により創画会が結成されて以後は同会に出品し、戦前戦後を通じて
    昭和の日本画革新運動の中心で活躍した。
    この間、1939年日本大学講師(~1943年)、1942年自由学園講師(~1959年)、1959年東京芸術大学教授
    (〜1969年)となる。
    また1940年法隆寺金堂壁画模写に従事し(~1942年)、1967年にも同金堂壁画再現模写に従事
    (~1968年)。
    1966年には東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団としてトルコのカッパドキアを調査
    している。
1990年 東京芸術大学名誉教授の日本画家吉岡堅二は、7月15日午前11時35分、急性心不全のため、
    東京都東大和市の自宅で死去した。享年83才

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