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吉田善彦 「牡丹罌粟」 F10号














  
 作家名  吉田善彦
 タイトル  牡丹罌粟
 技法  絹本・彩色
 サイズ  F10号 43.9×51.5cm
 額サイズ  66.3×73.3cm
 サイン  画面右下に落款・印譜。
 状態  作品状態は良好。額は小傷を除き概ね良好。黄袋・タトウ箱
 略歴
吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月21日 - 2001年(平成13年)11月29日)は、東京都出身の日本の日本画家、教育者。本名誠二郎。老舗の呉服屋の次男として1912年(大正元年)10月21日、東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に生まれる。小学校時代に南画家の中田雲暉に絵画の手ほどきを受ける。1929年(昭和4年)より速水御舟に師事。

1912年 10月21日東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に生まれる。
1929年 速水御舟に師事。
1935年 腸チフスにより速水が急逝。同年以後小林古径に師事する。
1937年 幸三郎の助力によって完成した「もくれんの花」が第24回日本美術院展覧会(院展)
    に初入選。
1940年 2月、第49回院展出品作「富士月明」が文部省買上作品に決定。
    同年より法隆寺金堂壁画模写事業に参加、橋本明治の助手として第9号大壁(弥勒浄土図)
    と第11号小壁(普賢菩薩像)を担当、模写作業のため奈良へ転居。
1941年 速水御舟遺門の同志9名と圜丘会を結成[1]。同年日本美術院院友に推挙。
1942年 法隆寺金堂壁画模写事業安田班として安田靫彦監修の元、6号壁を仕上げる。
1944年 応召義務により応召、太平洋戦争終結後となる1946年台湾より復員。復員後は再度法隆寺
    金堂壁画模写事業に従事。
1954年 東京世田谷区に戻り、安田靫彦門下生による火曜会に参加。1957年より1963年にかけて4作
    が院展奨励賞、1962年第47回院展出品作「滝」が日本美術院次賞を受賞、これらにより
    1964年(昭和39年)日本美術院同人に推挙。
1964年 より東京芸術大学講師、のち1968年(昭和43年)助教授、1969年(昭和44年)教授となり
    1980年(昭和55年)まで教職に就く。
1970年 には東京芸術大学第三次中世オリエント遺跡学術調査団の模写班に参加、トルコの
    カッパドキアへ赴く。
1973年 第58回院展「藤咲く高原」が文部大臣賞受賞。同年、イタリアのローマを始めとする
    イタリア国内壁画の研究を手掛ける。
1976年 6月10日より27日までの期間、宮川寅雄を団長、中川一政を名誉団長とする、美術家代表の
    訪中としては9年ぶりとなる中国文化交流使節日本美術家代表団に脇田和、中根寛、高山辰雄、
    加山又造、平山郁夫と共に参加、北京を始めとする中国各都市巡遊行を行った。
1978年 第63回院展「春雪妙義」が日本芸術院賞恩賜賞受賞。同年、日本美術院評議員就任。
1981年 第66回院展「飛鳥日月屏風」が内閣総理大臣賞受賞。
    同作は翌1982年(昭和57年)1月、第23回毎日芸術賞も受賞。
1982年 2月、朝日新聞社より『吉田善彦画集』出版。
1986年 東京芸術大学名誉教授。
1987年 日本美術院理事就任。
2001年 11月29日、肺炎により東京都世田谷区の病院で死去、享年89才。

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