略歴 |
山口華楊 ヤマグチ, カヨウ Yamaguchi, Kayo
1912年(明治45年/大正元年) 西村五雲に師事
1919年(大正8年) 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業
1926年(大正15年/昭和元年) - 同校教員
1938年(昭和13年) 画塾晨鳥社を主宰
1951年(昭和26年) 京都日本画家協会理事長
1956年(昭和31年) 日本芸術院賞受賞
1958年(昭和33年) 日展評議員
1969年(昭和44年) 日展理事
1971年(昭和46年) 京都市文化功労者、日本芸術院会員
1973年(昭和48年) 勲三等瑞宝章受章
1975年(昭和50年) 日展顧問
1980年(昭和55年) 文化功労者
1981年(昭和56年) 文化勲章受章
1984年(昭和59年) 3月16日、京都市にて死去。
[詳細画歴]
花鳥画一筋に描き続けた日本芸術院会員の山口華楊は、3月16日午後6時28分、肝蔵ガンによる心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年84。
明治32(1899)年10月3日京都市中京区に友禅彩色家の二男として生まれ、本名米次郎。明治45年格致尋常小学校卒業後、家業を継がせたい父の意志で西村五雲に入門する。
大正5年京都市立絵画専門学校に入学、この年早くも第10回文展に「日午」が初入選し早熟ぶりを示す。
大正8年同校卒業後、五雲のすすめで竹内栖鳳の私塾竹杖会の研究会にも参加する。
大正10年頃には、かつて知恩院派と呼ばれた土田麦遷、小野竹喬らが国画創作協会結成前に住んでいた知恩院崇泰院に仮寓し、一時国展の運動にも強い関心を示した。
昭和2年第8回帝展「鹿」、翌3年第9回帝展「猿」が連続して特選を受賞、動物画家としてその名を知られ昭和12年第1回新文展に「洋犬図」を出品する。また昭和11年長岡女子美術学校教授、京都市立絵画専門学校助教授となり、昭和13年師五雲が没した際画塾はいったん解散したが、一門により晨鳥社を結成、総務となりこれを主宰した。
昭和17年京都絵専教授となり(昭和24年まで)、翌昭和18年には海軍省従軍派遣画家としてジャワなど南方に従軍する。
新文展、日展とたびたび審査員をつとめ、また京都市展、大阪市展の審査員もつとめて25年日展参事、昭和26年京都日本画家協会理事長となる。
昭和29年第10回日展に斬新で理知的なフォルムと構図、色彩対比を見せる「黒豹」を出品、師五雲の影響を払拭した独自の様式を確立すると共に、現代的な日本画の登場として話題を集めた。
昭和31年には前年の第11回日展出品作「仔馬」により日本芸術院賞を受賞、昭和46年日本芸術院会員となる。
円山四条派の写実を出発点とし、穏雅で淡々と描き出す対象の中に知的でシャープな現代的感性を盛り込んだ作風は、戦後の日本画壇の動向の中でも一つの指標となった。
昭和44年日展改組に際し理事、昭和46年監事、47年常務理事、50年顧問となる。
また昭和50年「画業60年山口華楊展」、54年「山口華楊素描展」、55年「山口華楊回顧展」を開催、57年秋より翌年にかけてパリのチェルヌスキ美術館で個展が行なわれ好評をよんだ。
日本国際美術展などにも出品している。
昭和46年京都市文化功労者、昭和48年勲三等瑞宝章、55年文化功労者、56年文化勲章を受章、57年京都市名誉市民となる。
|