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鷲田新太 「モンマルトル」 25号











 作家名  鷲田新太
 タイトル  モンマルトル
 技法  パネルに貼った紙にガッシュ
 サイズ  25号 79.8×64.3cm
 額サイズ  93.3×77.8cm
 サイン  画面左下にサイン有り。
 状態  作品状態は良好。額所々スレあり。タトウ箱。
 略歴
鷲田新太(わしだあらた)
1900年 9月19日、滋賀県野洲郡に生まれる。本名新一。
1919年 兵庫県豊岡中学校を卒業
1924年 上京、川端洋画研究所で初めて木炭デッサンを学ぶ。
1927年 第5回春陽会展で「冬枯れ」が初入選
1929年 東京美術学校師範科受験のため同舟社研究所に通ったが受験に失敗、
1933年 伊藤快彦の紹介で安井曾太郎に師事、この年新世紀美術協会展に出品、
    また第21回二科展に「冬日風景」が入選。
1935年 美術雑誌『美之国』の編集員(筆名篠原巣一郎)となり編集に携わる。
1936年 川端龍子の知遇を受け、龍子主宰の「青龍社」の運営事務にあたった。
1938年 安井曾太郎門下生による「連袖会」第1回展に出品以後作品発表を断念した。
1956年 光陽会に所属(翌年会員)、同年の第4回展から毎年出品を続けた。
1968年 第16回光陽会展に「河童不動」で文部大臣奨励賞、美術報知賞を受賞、
    また光陽会代表となった。
1972年 71歳で初の個展を東京下村画廊、大阪フジヰ画廊で開催、独自のグワッシュによる
    「工場風景」や「俑人像」で注目された。
1973年 5月から約1年間パリに渡り制作に打込む。
1975年 「ピエロとその妻」等3点が東京国立近代美術館に所蔵され、
1976年 東京フジヰ画廊で「サンハイトウ風景」「モンマルトルの坂道」「パリの裏通り」など
    60余点による「鷲田新太滞欧作品展」が開催された。
1977年 12月25日心筋こうそくのため東京都三鷹市武蔵境の日赤病院で死去した。享年77。 

 評価  
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