略歴 |
★椿 貞雄(つばき さだお)
明治29年、山形県に生まれる。早逝した長兄の感化によって画家を志す。大正4年(1915)、正則中学に入学するも翌年退学し、岸田劉生に師事。同年、草土社の結成に参加。制作は劉生、思想的には武者小路実篤、長與善郎らの感化を受ける。
印象派以降の技法によって北方ルネサンスの写実を目指すことから制作は始まり、10年ころより劉生の東洋的表現の転換に従う。
11年春陽会結成に参加。昭和2年(1927)第1回大調和美術展参加のため春陽会を脱退。同年より船橋に住む。4年、大調和会の解散に伴い、国画会会員となる。同年、劉生の死によって制作を一時中断するまで虚脱感に追い込まれるが、その後も油彩画による日本的表現を模索。24年千葉県美術協会結成に尽力。同会常任委員となる。32年没。晩年には日本画の制作にも意欲的に取り組んだ。
1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。椿家の先祖は御館の乱にて上杉景虎方として戦った椿喜介。米沢藩では御扶持方(下士階級)の家柄であり、また分家は芸者組(下士階級)に組する芸能・芸術に明るい家系であった。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになった。
1914年(大正3年)に山形県立米沢中学校を中退して上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意した。
自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まる。椿は生涯劉生に師事し、劉生の画風に強く影響されながら作品を制作した。
武者小路実篤をはじめとする白樺派のヒューマニズムに影響を受けた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いていた。椿はその理想に共鳴し、
1915年、劉生とともに草土社の結成に参加する。草土社の画家たちは草や土までを克明に描き出すことで「内なる美」を描くことを目指しており、この頃の椿の代表作に『冬枯れの道』がある。この後も春陽会、大調和会と画壇ではつねに劉生と行動をともにした。
1917年劉生が結核の療養目的で神奈川県鵠沼に転居すると自らもそこに移り住み、頻繁に互いの家を往き来した。
1920年頃より劉生は東洋絵画に強い関心を抱き、日本画の制作も行った。椿も日本画制作を開始し、代表作には『冬瓜図』がある。また、劉生の『麗子像』に影響されて幼女をデロリの表現を取り入れながら描く『童女像
(毛糸の肩掛をした菊子)』などの作品を発表した。
1922年 梅原龍三郎らと春陽会設立
1923年 日本美術展覧会に出品
1926年、船橋尋常高等小学校の図画教師として採用されたことで千葉県船橋市に転居。
1927年、岸田劉生らと大調和美術展覧会に参加。慶応義塾幼稚舎の図画教師として勤務。
1929年 国画会4 回展に出品、国画会会員になる。
1929年に劉生が亡くなると椿はひどく悲しみ、制作に行き詰まるほどの状態となった。心配した周囲のものに洋行を勧められ、パリで個展を開催した。
1932年 渡欧。
1933年 渡欧作品展開催。帰国後は劉生の影響を感じさせないのびのびとした作風となり、日本の雄大な自然を明るくおおらかな作品に仕上げた『桜島』などの作品を描いた。また、『祖母と孫』に代表される孫を温かい眼差しで描いた作品も多く残しており、「愛情の画家」とも評されている。
1947年 武者小路実篤、河野通勢と「新しき村展」を創立
1957年、千葉県船橋市で亡くなる。享年61歳。
★主な所蔵美術館:東京国立近代美術館/山形美術館/群馬県立近代美術館/千葉市美術館/目黒区美術館/神奈川県立近代美術館/愛知県美術館/福岡市美術館
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