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鷹山宇一 「遊蝶花」 F6号





















  
 作家名  鷹山宇一
 タイトル  遊蝶花
 技法  キャンバスに油彩 
 サイズ  F6号
 額サイズ  57.5×48.5cm
 サイン  画面左下にサイン。裏面にサイン、タイトル。
 状態  作品状態は画像の通り剥落箇所、背景小浮き箇所、下部緑にヘアクラックあり.額所々スレあり。
 タトウ箱
 略歴


鷹山 宇一 タカヤマ ウイチ

1908年 青森県に生まれる。
1915年 七戸尋常高等小学校入学。歌人青山哀囚と出会い、芸術への関心が高まる。
1922年 旧制青森中学校に入学。棟方志功、松木満史らの青光画社に加わる。
1927年 上京後、川端画学校に入学しデッサンを学ぶ。日本美術学校洋画科へ編入。
1930年 第17回二科展に木版作品が初入選。
1938年 二科展出品の若手前衛作家により「絶対象派協会」を結成。二科会の前衛作家による「九室会」
    に参加。
1939年 二科会を離れ福沢一郎らによる「美術文化協会」創立に加わる。
1944年 海軍航空隊員として応召。終戦を迎え一時七戸町に戻る
1945年 二科会再建に際し会員として復帰、再び上京する。
1950年 第35回二科展で会員努力賞
1959年 二科会とサロン・ド・コンパレゾンとの交換展(パリ国立近代美術館)に出品。
1966年 第51回二科展で青児賞、
1967年 第52回展では総理大臣賞を受賞。
1961年 二科会の理事制に伴い、東郷青児理事長のもと理事に就任。
1994年 郷里に七戸町立鷹山宇一記念美術館開館、名誉館長となる。
1999年 死去。

自他共に認める鷹山の代表作は1950年第35回二科展に出品された『荒野の歌』(キャンバス・油彩、F80、神奈川県立近代美術館所蔵)である。
鷹山独特の深い緑を基調とした画面には、月夜の荒野を舞台にした物語が繰り広げられている。小高い丘の上から、大きな三日月を背にシルエットで浮かびあがる一頭の牛。ただじっと、見下ろす視線の先には、開墾のただ中なのであろうか、見事な切り株と、その上ではカマキリが蝶を追いかけ、そしてその根っ子に上半身を潜り込ませた裸の赤ちゃんが描かれている。
月明かりと相俟って、まさに夢幻の世界が広がる。終戦後の混乱と新たな出発を期するこの時代に「荒野の歌」を描いた鷹山は、一体何を、暗示したのだろうか。
1965年、この作品を買い上げた神奈川県立近代美術館・館長(当時)で美術評論家の土方定一氏は、「現代日本の稀有な幻想画家」と、鷹山を称した。
「ぼくは、若いころはシュールの絵を描きました。シュールは夢幻的な具象ですよ。ぼくはこのところ、花と蝶をテーマにして描いているけれど、考えてみれば、ぼくの絵の系列はシュールでしょうね。最近になって、ぼくはしみじみそう思います」
※鎌原正巳「鷹山宇一の人と作品」(『季刊美術誌 求美 ’70涼風号』4号、1970年)
前衛画家として超現実主義的な作品を発表してきた鷹山が、幻想的な油彩画で知られる今日の作風となったその境界には、太平洋戦争が横たわっている。
戦後は専ら、野山の緑や海の青を彷彿させる色調の静謐な画面に、色とりどりの花や静物、蝶を配して、独自の幻想世界を創出した。しかし、ルーペで観察しながら細やかに描き込まれる蝶をはじめ、モチーフひとつひとつを見れば、それらは具象そのもので、それぞれがひとつの画面に絶妙に配置された瞬間、鷹山宇一の幻想世界となって表出し、甘美な空想や物語を見る者に伝えはじめる。そして、絵の具が乾くまで待ち、薄く塗り重ねてはまた待つ、この繰り返しにより丹念に作り上げられるマチエールは独特の透明感を生みだし、その幻想美を一層際だたせている。
見る者を夢幻の世界へと誘う鷹山の作品に、シュルレアリストの眼を見逃すことはできない。現代日本の稀有な幻想画家と称された鷹山宇一が表す「美」の、孤高を持した「形」が、ここにある。

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