杉原玲子は昭和12年岐阜市に生まれた。
県立岐阜長良高校卒業、在学中文学に惹かれ詩作にいそしむがルオーや
モジリアニーの画集にふれ孤独な自己を表現しようと決意し23歳、
昭和35年、画家を志して単身上京した。
独学で絵画の制作に励み24歳で初めて個展を開く。26歳で精神医学
ソーシャルワーカー見浦康文氏と結婚、以降氏の純粋培養的協力で
日野市程久保のアトリエで制作に励んだ。
昭和40年29歳で自由美術に初出品、33歳同会会員に推挙、35歳で退会無所属となり
個展に専念することになる。
36歳青木画廊での初の個展に朝日新聞、サンデー毎日等に大きく紹介され話題を呼んだ。
昭和51年、39歳でインド・ネパールを旅行、カジュラホの愛欲の女神の彫像を見て
エロスが人間の根元にあることを痛感する。
52年40歳、青木画廊第2回展に堀口大学先生から「罪の美しく、悪の慕わしく」の詩を寄せられる。
翌41歳、中国北京の「明の十三稜」を訪れ地下宮殿の死後の世界の存在を確信する。
43歳、第3回展堀口大学先生より杉原玲子へ「一毫五彩」の詩を寄せられた。
昭和58年、46歳 人気女流作家「エロスの女王」「素敵な女性たち」と週刊誌、
婦人雑誌に度々取り上げられ注目されたが、無意識に画面に仏陀が現れ始め、
予期せぬ運命が訪れた。この年の7月始め病に倒れ入院、よく3月永眠。
昭和59年1984年享年46歳であった。
杉原玲子の描いた裸婦は自分がモデルであってその絵の肌は血管が透けて
みえる位で生きている様に息づいている。
死とエロスをかくも見事に描き出した画家は少ない。画家として円熟の最盛期、絶頂期の死は悼まれる。
葬儀の日は東京地方大雪で祭壇には雪の肌の自画像が飾られた。
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