略歴 |
須田寿 すだ-ひさし 1906−2005 昭和-平成時代の洋画家。
1906年 5月25日生まれ。旧姓門井。東美校卒。
長原孝太郎、和田英作に師事し、のち阿以田治修に師事する。
1930年 「裸婦」で帝展初入選。
1941年 創元会展で受賞。
1947年 日展「家鴨」で特選。
1949年 立軌(りゅうき)会を創立,同会を中心に活動する。
1965年 武蔵野美大教授。
1985年 「家族」で芸術選奨。
20057年 1月24日死去。98歳。
詳細
1906年 5月25日、東京日本橋本町に生まれる。本名門井(かどい)寿。
1913年 精華小学校に入学。同校在学中に遠縁にあたる日本画家下村観山のアトリエに出入りする。
1919年 成蹊中学校に入学し、1924年同校を卒業。洋画家を志し、東京美術学校西洋画科を受験するが、
不合格となり川端画学校に入学する。
1926年 東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎に師事。
1927年 友人の大貫松三とともに中国へ旅行し北京に二ヶ月半滞在。
1928年 東京美術学校西洋画科和田英作教室に入る。
1930年 第11回帝国美術院展に「裸婦」で初入選。
1931年 親戚の須田家の養子となる。同年第12回帝展に東京美術学校の卒業制作「髪」を出品して入選。
1933年 第14回帝展に「三人」、
1934年 第15回帝展に「庭園小景」を出品し、官展作家としての地歩を固める。
1935年 松田改組に伴い設置された第二部会第1回展に「庭前」を出品。
1936年 文展鑑査展「蔭に憩う」を出品する一方、
1935年 石川滋彦、井手宣通、川端実ら官展若手作家が新規な試みを行う団体として設立した立陣社の趣旨
に賛同して第2回展に「秋日」を出品。
この頃から人物群像を穏健な写実にもとづいて描く画風が、デフォルメ等斬新な試みを取り入れた
画風に変化しが、1937年 文展に落選する。
1939年 第3回新文展に「親爺と子ども」が入選し、再び官展への出品を続ける。
1940年 阿以田治修、大久保作次郎、佐竹徳らが創設した創元会に第一回目から出品。戦後は
1946年 春第1回日展に「暖日」、秋の第2回展に「裸童」を出品するとともに第5回創元会展にも出品。
1948年 5月日本橋三越で「須田寿油絵個展」を開催。
1949年 日展のあり方に疑問を抱き、退会。また創元会からも退会し、牛島憲之、飯島一次、大貫松三、
榎戸庄衛、円城寺昇、山下大五郎と立軌会を創立し、以後、同会を中心に活動を続ける。
この頃、ピカソやブラックなどのキュビスムに学び、対象を簡略な形態に還元して把握する画風
へ移行し、70年以上におよぶ画業のなかで、大きな節目となった。
1950年 東京美術学校昭和6年卒業生による六窓会を創立し、1954年の同会解散まで出品を続ける。
1952年 第1回日本国際美術展に「二人」「少女の像」「鶏を抱く少年」を出品。
1954年 9月、初めて渡欧し、フランス、イタリア、スペイン等を巡って西洋の古代美術に打たれる。
帰国後、渡欧中で印象に残った異国の生活の風景、特に人と家畜のいる光景を描くようになり、
牛が主要なモティーフとなる。
1963年 北九州の装飾古墳を見学して感銘を受け、古墳をモティーフとして描く。
1965年 3月武蔵野美術大学造形学部教授となる。
1971年 再渡欧。1972年5月に3度目の渡欧。
1973年 3月ギリシャ方面を旅行し、ギリシャ古典文明を探求。7月東京セントラルサロンで須田寿個展を
開催。
1976年 須田寿教授作品展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を自選作品により開催。
1977年 11月須田寿自選展を東京セントラル美術館で開催。
1978年 武蔵野美術大学を退職し、同学名誉教授となる。
1979年 より立軌会のほかに日本秀作美術展、世田谷美術展に出品を続けたほか、日本橋高島屋、日動
サロンほかで個展を開催する。
1982年 「須田寿画集」(日本経済新聞社)を刊行、同年第6回長谷川仁記念賞受賞。
1985年 第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、同年、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。
1993年 4月世田谷美術館で「須田寿展」が開催され、年譜、参考文献は同展図録に詳しい。
2001年 中村彝賞受賞。官展作家として活躍したアカデミックな画風から、立軌会創立後、再現描写に
とらわれない内省的思索を絵画化する作品へと移行し、暗褐色、暗緑色を基調とする色数を
限った色調と独自のマチエールを特色とする作品を制作し続けた。
2005年 1月24日午前、1時35分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年98才。
武蔵野美術大名誉教授。長谷川仁記念賞・芸術選奨文部大臣賞受賞。紺綬褒章・勲四等瑞宝章受章。
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