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島田章三 「金魚鉢」 F20号



















   
 作家名  島田章三 
 タイトル  金魚鉢
 技法  キャンバスに油彩
 サイズ  F20号 72.7×60.6cm 
 額サイズ  92.8×80.5cm
 サイン  画面右下にサインがあります。キャンバス裏側にタイトルと作者名があります。
 状態  作品状態は良好。額所々軽いスレあり。さし箱
 略歴
島田 章三(しまだ しょうぞう、1933年7月24日 - 2016年 11月26日)は、
日本の洋画家、版画家、文化功労者、日本藝術院会員、愛知県立芸術大学名誉教授
大胆な構成と色彩感覚をもった画風で、在学中に国画賞を受賞している。
渡欧以後70年ごろから徐々に明るい色調と、独特の人物像が少しずつ画面にあらわれ始め、現在ではかたちびととして象徴的な作風を確立している。近年はコラージュ作品なども積極的に取り入れている。

1933年 神奈川県横須賀市に生まれる
1957年 国画会展で「ノイローゼ」が国画賞を受賞、東京・フォルム画廊で個展開催
1958年 東京藝術大学油画科卒業
1960年 東京藝術大学専攻科修了
1961年 国画会会員
1966年 愛知県立芸術大学専任講師、助教授
1967年 第11回安井賞受賞
1968年 愛知県在外研修員として渡欧
1974年 愛知県県立芸術大学教授となる
1975年 東京国立近代美術館「日本近代の美術」出品
1976年 第29回中日文化賞受賞
1980年 愛知県芸術文化選奨受賞。東郷青児美術館大賞を受賞、アメリカ旅行
1983年 島田章三の世界展(池田20世紀美術館)開催
1986年 島田章三展開催(読売新聞社主催)
1990年 第8回宮本三郎記念賞受賞
1992年 愛知芸大退職
1993年 紫綬褒章、東海テレビ文化賞受賞
1996年 愛知県県立大学名誉教授
1999年 島田章三展開催(三重県立美術館、平塚市美術館、笠間日動美術館)、
    日本芸術院賞受賞、同年芸術院会員
2001年 愛知県芸術大学学長就任(〜2007年)
2004年 文化功労者
2016年 11月26日、名古屋市の自宅で膵臓癌のため死去。83歳。

【詳細履歴】
1933年 7月24日、島田英之・敏子の三男として神奈川県三浦郡浦賀町大津(現在の横須賀市大津町)
    に生まれる。兄弟は陽一、修二、章三、迪男、嘉寿江の四男一女であった。
1940年 4月、大津尋常高等小学校に入学。
1943年 肺炎から肋膜炎になり1年間休学。このとき病室で見た幻覚が後の作品『炎』に生かされて
    いる。
    9月、戦争の激化に伴い、祖父のいる長野市に疎開する。
1945年 10月、疎開先から横須賀に戻る。
1946年 4月、大津国民学校高等科に入学。
1947年 納税ポスターコンクールで全国1位を受賞。大蔵大臣賞の賞金で油絵具一式を購入する。
    中学校の美術教師の指導を受け、後に金沢重治、熊谷九寿に師事。
1949年 4月、神奈川県立横須賀高等学校に入学。美術部に入部する。
1951年 1月、毎日新聞社主催の第1回全日本学生油絵コンクールに『酸素工場』で入選。
1952年 3月、神奈川県立横須賀高等学校を卒業。東京藝術大学進学を決意し、川村信雄のア
    トリエに通う。
1954年 4月、東京藝術大学美術学部油画科に入学。1学年は久保守、2学年は牛島憲之、3学年は
    山口薫、4学年は伊藤廉にそれぞれ指導を受ける。
1957年 4月、『ノイローゼ』で国画賞を受賞し、画壇デビューを果たす。
    12月、福島繁太郎の推薦により、銀座のフォルム画廊で初の個展を開催。
1958年 3月、東京藝術大学美術学部油画科卒業。卒業制作の『箱舟』で大橋賞を受賞。
    4月、東京藝術大学専攻科に進学。国画会会友になる[6]。
1960年 3月、東京藝術大学油画専攻科を修了。大田区立大森第三中学校、東京工業大学附属工業
    高等学校などで美術の非常勤講師を務める。大学の同級生だった林敬ニとともに横浜洋裁
    学院内に「横浜造形研究所」を設立し、デッサンの指導を行う。
1961年 4月、国画会会員となる。
1962年 12月、大学の同級生だった田中鮎子と結婚。東京・大森の新居から横須賀のアトリエに通う。
1966年 4月、伊藤廉の誘いで愛知県立芸術大学に非常勤講師として赴任。愛知県愛知郡長久手町
    に転居。
1967年 12月、『母と子のスペース』で第11回安井賞を受賞[7]。
1968年 9月、愛知県在外研究員として渡欧。主にパリ・モンマルトルに滞在し、スペインや
    イタリアを巡る。
1969年 9月、帰国。愛知県立芸術大学助教授に就任。
1974年 4月、愛知県立芸術大学美術学部教授に就任。
1976年 5月、第29回中日文化賞受賞。
1980年 昭和54年度愛知県芸術文化選奨を受賞。
    4月、『炎』(1979年)その他の作品により、第3回東郷青児美術館大賞を受賞。
    8月、アメリカを旅行。
1983年 6月、ブラジルを訪れる。
    9月、恩師伊藤廉の画業を讃え、新進洋画家の育成を目的とした伊藤廉記念賞を設立、
    運営委員となる。
1990年 3月、『鳥からの啓示』(1989年)で第8回宮本三郎記念賞を受賞。
    4月、愛知県立芸術大学芸術資料館館長に就任(1992年3月まで)。
    10月、愛知県文化功労賞を受賞[10]。
1992年 3月、愛知県立芸術大学美術学部教授を退官。
1993年 10月、紺綬褒章を受賞。
    11月、第26回東海テレビ文化賞を受賞。
1996年 4月、愛知県立芸術大学名誉教授に就任。
1997年 10月、愛知県知事表彰を受ける。
1999年 3月、日本芸術院賞を受賞。
    9月、日本芸術院会員となる。
2001年 4月、愛知県立芸術大学学長に就任(2007年3月まで)。
2004年 11月、文化功労者に選出。
2005年 1月、平成16年度名古屋市芸術賞を受賞。
2007年 1月、頚椎症の手術を受ける。
    4月、愛知芸術文化センター総長に就任(2010年12月まで)。
    横須賀美術館館長に就任(2011年3月まで)。
2009年 5月、旭日重光章を受賞。
2016年 11月26日、名古屋市の自宅で膵臓癌のため死去。83歳。正四位を除される。


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