ラグーザ・玉(旧姓清原玉、幼名多代。ラグーザお玉とも表記される。
西洋名はEleonora Ragusa)は、1861年7月17日(文久元年6月10日)、
江戸に生まれました。若い頃から日本画、西洋画を学びました。
1877年工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、
西洋画の指導を受け、また、ヴィンチェンツォの作品のモデルも務めました。
1880年にヴィンチェンツォと結婚(正式な結婚はイタリアに渡ってからの説もあります)。
ヴィンチェンツォはパレルモに美術工芸学校を設立する計画を持っていたので、
玉に水彩画の教師としてパレルモに赴く様に清原家に懇願し、姉婿の清原栄之助が漆芸
、姉の千代が日本刺繍の教師となる条件で2年後の1882年にイタリアのパレルモに渡り、
パレルモ大学美術専攻科に入学しました。
同校では、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事しました。
1884年にはヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、
玉は絵画科の教師を務めました。同時にイタリア初の日本人画家としても、
パレルモやモンレアーレ、シカゴなど各地の美術展や博覧会で受賞するなど、
高い評価を得ていました。
1927年に夫のヴィンチェンツォと死別し、東京美術学校にヴィンチェンツォの遺作を
多数寄贈しました。その後、パレルモを訪れた木村毅が1931年大阪毎日新聞、
東京日日新聞に連載した小説「ラグーザお玉」が話題となり、1933年51年ぶりに
日本に帰国し、帰国後は画業に集中した。
1939年4月5日東京都芝区の実家で脳溢血を起こし、翌6日に急逝、享年79歳でした。
1986年に初の回顧展となる「ラグーザ玉展」が、新宿小田急グランドギャラリーなどで開催されました
|