<その6>に戻る


大島哲以「抱き合う男女」M15号














 作家名  大島哲以
 タイトル  抱き合う男女
 技法  板に貼ったキャンバスに彩色
 サイズ  M15号 
 額サイズ  63.8×82.8cm
 サイン  
 状態  作品状態は良好。額所々スレ、額裏紙に破れあり。さし箱
 略歴等
大島 哲以(おおしま てつい、1926年3月2日 – 1999年4月12日)は、日本画家。1971年に文化庁
在外研修員として渡欧し、ウィーン幻想派のリーダー的な存在であったフッターに師事。
擬人化した動物や植物をモチーフとして、独特な世界観の作品を残した。中井英夫、赤江瀑と
いった作家の装丁画を手がけたことでも知られている。
生と死という人間にとって根源的な2つのテーマを幻想画に描き続け、戦後芸術の幻想絵画を代表する
日本のシュールレアリズムを論じる時、欠かすことができない作家。
22歳の時、日本画の中村貞以にし、院展、新制作展に発表を続けた。1971年、日本画として初めて
文化庁在外研修員として渡欧、フッターやフックスに出会い、混合技法を学ぶ。
ウィーンでブリューゲルやボッシュなどの中世画と巡り会うのと前後して、中村正義らとともに
「異端の日本画家」と呼ばれるようになる。
日本画、洋画という壁を超えて「エロスをいかに白日の元でいかに美化できるか」をテーマに、
バラと女をモチーフにした「薔薇刑」を描き続けた。

年譜

1926年 名古屋市東区に生まれる。※本名:寿康
1932年 大阪に転居。父の影響で音楽、文学に親しむようになる。
1945年 大阪理工科大学在学中に大空襲を受ける。「原爆は忘れえぬ記憶、グラマンの機銃掃射の中、
    ドボルザークの新世界を聞いたのが唯一の救いだつた」
1948年 中村貞以に師事。第33回院展 ※〜1954年まで出品
1955年 上京する。
1960年 第24回新制作協会展  ※1969年まで出品
1964年 第6回現代日本美術展(東京都美術館)、個展(名古屋丸栄)
1966年 朝日秀作美術展(日本橋三越)、針生一郎の選んだーこれが日本画だ〈25人〉展(日本画廊)、
    第1回戦争展(日本画廊)
1967年 第2回ジャパン・アート・フェスティバル ※アメリカ巡回
1968年 第8回現代日本美術展(東京都美術館)
1969年 日本画の新人たち(京都国立近代美術館)
1970年 日本万国博覧会美術展(大阪)
1971年 文化庁在外研修員として渡欧。※〜1972年 ウィーン工芸大学に学ぶ
1973年 個展「日本幻想絵画の明星」(日本橋・三越) ※大島哲以作品集「失われた風景」羽黒洞発行
1974年 第1回人人展「黒い太陽–七人の画家」(日本橋・三越)※以降、第7回展(1981年)まで出品し、退会
1975年 第3回インドトリエンナーレ(ニューデリー)、第1回東京展(東京都美術館)
1979年 第1回日本秀作美術展(日本橋・高島屋)、「林檎の木のうた」(童心社)刊行  
    ※詩:神沢利子 画:大島哲以
1981年 幻視の森「今日のシュールレアリズム展」(東京セントラル絵画館)
1982年 幻視者たち ドイツ巡回展(ケルン文化センター・ヴィルツブルグ美術館)
1984年 個展(名古屋・丸栄)、国際形象展(日本橋・三越)
1986年 現代日本美術展(ケンブリッジ他)
1988年 20世紀絵画の展開(名古屋市美術館)
1989年 「タランの白鳥」(福音館書店)刊行  詩:神沢利子 画・装丁:大島哲以
1993年 個展(名古屋・丸栄)、JAG展(池田20世紀美術館)
1995年 個展「薔薇刑〜大島哲以の世界〜」(アートミュージアム・ギンザ)
1999年 第25回人人展「四半世紀を振り返る創立メンバー特別展」(東京都美術館)、
    4月12日逝去 ※73歳

 評価
 発送