略歴 |
「日本画壇の風雲児」と称された中村正義は、子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできなかったが、日本画壇の重鎮・中村岳陵の画塾に入門し、22歳で日展に初入選。たちまち頭角をあらわす。速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されたが、その後モディリアーニやデュビュッフェ、さらにポップアートなどを自分流に咀嚼した破天荒な画風に転じ、日展を脱退、師の元も離れる。
日本画壇から激しいバッシングを受け、外の世界に仕事を求めた結果、映画用の注文作品や、雑誌の表紙や、リアリズム風の絵も手がけた。52歳で亡くなったあと、遺族(娘の中村倫子)が家を美術館として公開している(「中村正義の美術館」)。
1924年 愛知県豊橋市に生まれる。生家は蒟蒻工場を営んで いた。
1940年 病気により豊橋市立商業学校を中退。
1946年 中村岳陵に師事、日展初入選。
1950年 第6回日展に「谿泉」(豊橋市美術博物館蔵)を出品、特選となる。
1952年 「女人」で特選を受賞する。
その後肺結核療養のため1957年まで制作を中断する。
1960年 第3回新日展の審査員となる。
1961年 神奈 川県川崎市細山に転居。日展を脱退する。
1963年 個展「男と女」(上野松坂屋・名古屋丸栄)を開催。従来の画風から一変した前衛的かつポップな
作品30 点を発表する。
1964年 映画「怪談」(小林正樹監督) のため「源平海戦絵巻」5部作 (国立近代美術館蔵)を制作。
1966年 個展「顔の自伝」(日本画廊)開催。
1967年 直腸癌の手術を受ける。
1969年 個展「太陽と月のシリーズ」 (銀座三越)開催。
1970年 写楽研究の成果「写楽」(ノーベル書房)を出版。東京造形大学の日本画教師となる。
1974年 人人会を結成。第1回人人展 (日本橋三越)開催。
1975年 東京展実行委員会事務局長として展覧会開催に奔走。第一回東京展(東京都美術館)を実現させ
〈おそれ〉を出品。
1977年 4月16日肺癌のため死去。享年52才。
1980年 NHK日曜美術館「私と中村正義」放映。
「異端の天才画家 中村正義」展(豊橋市美術博物館)開催『中村正義画集』(講談社)刊行。
1983年 「反骨・奔走の偉材 中村正義」展(神奈川県立近代美術館) 開催。
1988年 「中村正義の美術館」公開。
1993年 NHK日曜美術館「現代日本画の出発 中村正義」放映。
1997年 「没後20年-中村正義」展(豊橋市美術博物館、川崎市市民ミュージアム、新潟市美術館)開催。
1998年 「中村正義の美術館」開館10周年記念として『創造は醜なり』(中村正義 著/美術出版社)刊行。
1999年 NHK新日曜美術館「拝啓中村正義さま」放映。
2005年 テレビ東京 美の巨人たち「100枚の自画像」放映。
2011年 所在不明になっていた作品を含めた230点の作品による「中村正義 日本画壇の風雲児、新たなる
全貌展」(名古屋市美術館)開催。
2012年 「中村正義 日本画壇の風雲児、新たなる全貌展」が東京都の練馬区立美術館に巡回。
2013年 1月5日ドキュメンタリー映画「父をめぐる旅 異才の日本画家・中村正義の生涯」公開。
監督武重邦夫、近藤正典。
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