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三岸好太郎 「草上野狗」 6号



































 作家名  三岸好太郎
 タイトル  草上野狗
 技法  紙に墨・水彩
 サイズ  6号 28.1x40.4cm
 額サイズ  55.7x67.8cm
 サイン  画面右下上にサイン 有り。額裏に、三岸節子鑑定シールあり。東京美術倶楽部鑑定書付属。
 状態  作品の状態は、概ね良好です。額装には、若干のキズがあります(裏留金具欠)。
 クロス箱・黄袋付き。
 略歴
三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、
日本の洋画家である。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。
同じ洋画家の三岸節子(旧姓・吉田)は妻。作家の子母沢寛は三岸の異父兄にあたる。

北海道札幌区(現 札幌市)出身。祖父・梅谷十次郎は元御家人で、石狩の漁村厚田村の網元だった。
父は橘巌松、母は三岸イシ。父巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中
に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。
また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、
三岸家の戸主である母の姓を名乗る。

1916年に父を亡くしてからは母イシが質屋に住み込みで働き始め、札幌で所帯を持っていた異父兄
・梅谷松太郎(子母澤寛)に育てられる。
札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を卒業後、画家を志して
1921年に上京。
1923年、第1回春陽展に『檸檬持てる少女』が入選。翌
1924年、第2回春陽展に『兄及ビ彼ノ長女』などを出品、春陽会賞を主席で受賞。
同年、吉田節子と結婚。
初めアンリ・ルソー風の素朴な画風から出発し岸田劉生の東洋趣味への傾倒を経て、やがては
中国旅行(1926年)の体験を元にしたエキゾティックでロマンティシズム溢れる画風に転じた。
1930年、福沢一郎らと独立美術協会の結成に参加する。最年少の会員となり、独立展で『面の男』
など道化をモチーフにした作品を数多く発表した。
この頃から画面は、ジョルジュ・ルオー風のフォーヴィズムの影響が顕著になって来る。さらに、
1932年に開催された「巴里・東京新興美術同盟展」に衝撃を受けたことを契機に三岸のその画風は
前衛主義に急速に接近して行った。
抽象形態を構成した『コンポジション』や線条様式の『オーケストラ』などの試作により純粋主義・機械主義を賛美した三岸はその後シュルレアリスムに移行し、
1934年に連作「蝶と貝殻」シリーズを発表する(死後の世界をイメージしたものとも言われる)。
中でも『海と射光』は単純化した構図に白日夢のような幻想的な光景を現出し、
乾いたエロティシズム・東洋的な叙情をも漂わせた晩年の三岸の代表作と言ってよい作品である。
その後も三岸は精力的な活動を続けたが、
同年1934年7月に旅行先の名古屋で胃潰瘍で吐血し、31歳の短い生涯を終えた。
三岸は村山槐多・古賀春江らとともに詩作も行う画家として知られ、散文詩『上海の絵本』、
『蝶と貝殻』などの作品を残している。三岸ならではの色彩感と唯美性、そして硬質な叙情といった
ものが、これらの作品の特色をなしている。
創作を「主観的感情の表現」と定義づけた三岸にとって、絵画と詩は互いに補完し合う関係であった
ものと思われる。
死後75年経った2009年6月、妻・節子のアトリエで、三岸の最晩年の作品と見られる油彩画が発見された。

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