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前田青邨 「菊」 3号





























   
 作家名  前田青邨
 タイトル  菊
 技法  紙本金色紙・彩色
 サイズ  3号 27.1x24.1p
 額サイズ  45.9x42.8p
 サイン  画面右下に落款・印譜。東京美術倶楽部鑑定証書付属。
 状態  作品の状態は、良好です。額装の状態も、概ね良好です
 略歴


前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日)は、岐阜県中津川市出身の日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。

【略歴】
青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。
1955年(昭和30年)に、文化勲章を受章するなど、画壇・院展を代表する画家として長年活躍した。
晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わった。その遺志は、青邨の弟子の平山郁夫等にも引き継がれている。
岐阜県中津川市に青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館があった(2015年6月に閉館)。青邨の代表作の1つ「洞窟の頼朝」は2010年(平成22年)に重要文化財に指定された。

【年譜】
1885年 1月27日、岐阜県恵那郡中津川村(現・中津川市)で出生。食料品屋(乾物屋)を営む父常吉、
    母たかの次男だった。本名、廉造といった。
1898年 上京し京華中学校に入学するが体をこわして中途退学、帰郷。
1901年 再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古に入門
1902年 半古から「青邨」の雅号を貰う。梶田半古の弟子は小林古径をはじめ雅号に「古」の字を貰う
    ことが多かったが、青邨以降は奥村土牛を含め「古」を貰っていない。
1907年 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英とともに研究を続ける。  
1911年 下村観山の媒酌で、荻江節の家元 初代荻江露章こと佐橋章子の妹すゑ(荻江露友)と結婚。
1912年 健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。
1914年 再興された日本美術院の同人となる
1915年 朝鮮旅行
1918年 日本美術院評議員に推挙される
1919年 中華民国へ旅行
1922年 事業家・望月軍四郎の援助で小林古径と共に日本美術院留学生として約1年間渡欧。アッシジで
    観たジョット・ディ・ボンドーネの壁画などイタリア中世の絵画に感銘を受ける。 
1923年 大英博物館にて中国・東晋の名画「女史箴図巻」を模写して帰国(模写は東北大学附属図書館
    が所蔵)
1930年 「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞受賞
1935年 帝国美術院会員となる。御即位記念献上画「唐獅子」を制作
1937年 帝国芸術院会員に推挙される
1943年 満洲・支那旅行
1944年 7月1日 帝室技芸員に推挙される[2]。
1950年 文化財保護委員会専門審議会委員に就任
1951年 東京芸術大学日本画科主任教授に就任。翌年より平山郁夫が青邨の助手となり、爾来指導を受ける
    こととなる 
1955年 文化勲章受章、文化功労者。中津川市名誉市民となる
1956年 日本美術家連盟会長に就任
1957年 川合玉堂の後を継いで香淳皇后の絵の指導役となる
1958年 日本美術院常務理事
1959年 国立近代美術館評議員
1960年 訪中日本画家代表団団長
1962年 東京芸大名誉教授
1964年 日光二荒山神社宝物館の壁画「山霊感応」完成
1967年 法隆寺金堂壁画再現事業総監修に安田靫彦と共に就任
1970年 皇居長和殿「石橋の間」に1955年(昭和30年)に謹作した壁画「石橋」を加筆。新たにその左右に
    「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作
1973年 高松塚古墳壁画模写事業総監修者
1974年 ローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシア夫人像」を完成
1977年 10月27日 老衰のため逝去(92歳没)。贈従三位

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