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池田満寿夫 「ウォーターメロン」 10号











 作家名  池田満寿夫
 タイトル  ウォーターメロン(レゾネ620)
 技法  リトグラフ
 サイズ  41×52p 
 額サイズ  51×63p
 サイン  画面右下にサイン。制作年1976年。
 状態  作品・額装ともに、状態は良好です。
 略歴
池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年2月23日 - 1997年3月8日)は、日本の画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督などの従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。
エロスの作家といわれるように、官能的な作風が多い。しかし、多岐にわたる活動、多才がゆえに“池田芸術”は高い知名度のわりに現在でもなかなか正当に評価されていない

1934年 2月23日旧満州国奉天市(現在の瀋陽市)に生まれ、戦後長野県長野市で育つ。長野北高等学校
    (現長野県長野高等学校)卒業。
    高校在学中に絵画が入選、画家を志し上京するが、東京芸術大学の受験に3度失敗し大学進学を
    断念。このうち、1回は油絵科志望、2回は彫刻科だった。酒場で似顔絵を描いて生活費を稼ぐ
    生活を送りながら19歳で自由美術家協会展に入選。
    その後、画家、瑛九の勧めで色彩銅版画の作製に取り組む。この時期、平井蒼太主宰の真珠社
    から豆本のシリーズを刊行。
1957年 東京国際版画ビエンナーレ展に入選。
1960年 同展で文部大臣賞を得て脚光を浴びた。
1961年 上野・不忍画廊で初の個展を開く。
1965年 ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開き、話題となる。
1966年 32歳のとき、棟方志功に次いで版画家としては最高権威のヴェネツイア・ビエンナーレ展版画
    部門の国際大賞を受賞。
    池田の名を国際的にも第一線の芸術家にした。版画のドライポイントでは、パウル・クレーや
    ウィレム・デ・クーニングに加え、雪舟、水墨画の影響も受けていた。東京国際版画
    ビエンナーレ展などで、外国人審査員が評価したのは池田作品の中に“東洋の影”を見たからで
    ある。 後に水彩画や文学方向にも関心が傾く。
1977年 『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。この『エーゲ海に捧ぐ』は、絵画・歌・小説・映画と
    マルチな分野で池田自身の手によって現され、非常に話題となった(主演はのちにイタリア
    の国会議員にもなったチチョリーナことシュターッレル・イロナ。官能的な女性を描かせたら
    、当代一であったといわれる。制作した版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えると
    みられる。
1980年 代以降は、テレビにも盛んに出演、人気クイズ番組日立 世界・ふしぎ発見!の準レギュラー
    などで一般大衆への知名度もアップし、文化人としても活躍したが、晩年、陶芸制作に没頭
    したことは、あまり知られていない。
1965年 初訪米したときから、米国陶芸界の第一人者であるピーター・ヴォーコスと交流。帰国後の
1983年 から陶芸にも没頭した。死の3年前に制作した般若心経シリーズの作品は池田の陶芸作品の
    中で最高傑作といわれる。般若心経という精神世界を平面ではなく、立体的に造形化した。
    地蔵や佛塔の作品などは、エロスの作家といわれた池田版画のイメージとは全く異なる。
    池田の陶芸作品はあえて割れるように制作したのが特徴であり、池田本人は“破壊の美学”と
    述べている。国際的に精力的な創作活動を展開し、多忙な生活を送っていたが、
1997年 3月8日、静岡県熱海市の自宅にいたところ地震に遭遇し、愛犬に飛びつかれて昏倒、心不全
    にて急逝。享年63才。
    4月に、長い期間、担当していた多摩美術大学客員教授から、多摩美術大学教授(専任)への
    就任が内定しており、後進の指導にも本格的に当たろうとしていた矢先の死だった。

19歳で入籍した女性が離婚に応じなかったため、生涯戸籍上の妻はこの女性のみで、その後に同居した作家富岡多恵子やバイオリニスト佐藤陽子などは内縁の妻だった。
ただし、画家であった米国人女性とは国外で正式に入籍している。終生連れ添うことになる佐藤とはおしどり夫婦として知られ、池田の講演と佐藤の演奏をセットにした催しなども行っていた。
主な所蔵作品は、長野市の池田満寿夫美術館、三重県菰野町のパラミタミュージアム、熱海市の池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家と池田満寿夫記念館でそれぞれ常設展示されている。京都市の京都国立近代美術館は佐藤陽子から寄贈された版画作品を所蔵する。
広島市現代美術館、長野県信濃美術館は池田作品のコレクションを所有。

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