略歴 |
伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、
鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。
1902年 2月23日伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。
1920年 鳥取第一中学校卒
1924年 京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に
専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。
1925年 春陽会展に出品、入選
1926年 二科展に入選し、以後、1943年の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。
全関西展にも入選し受賞、この年から1946年全関西美術協会解散まで例年出品する。
1930年 全関西美術協会々員となる
1931年 二科賞を受ける
1932年 二科会々友となる
1939年 従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
しかし、いわゆる戦意高揚のための戦争画ではなく、大同石仏や中国の民衆の質朴な暮らし
を描いた。
1941年 二科会々員となる
1943年 二科会解散
1945年 11月、向井潤吉らの画友とともに行動美術協会を創設して画壇で活躍する一方、京都学芸
大学美術家主任教授、京都精華短大教授を歴任して後進の育成に当たった。
1946年 行動美術京都研究所、京都地方展の開設に尽力し、翌22年第1回行動美術全関西展を開いた。
1953年 朝夕の要綱に染められた九州の山々を取材し、悠久の自然と対話するうちに、情熱と気魄に
満ちた赤褐色に到達。「伊谷レッド」と呼ばれるようになった。
1970年 3月27日胆管炎のため逝去した。享年68歳。
なお、1939年~1943年の間、大同石仏を初め、古美術、風物・祝祭を研究、制作のため毎年華北に旅行した。1952年より1965年まで京都学芸大(現教育大)西洋画科主任教授をつとめ、更に新設の精華短大の美術科主任教授となった。
〔主要作品〕「C・M嬢」、「一椀親善」、「陸の港」(張家口)、「大同石仏」、(以上二科会)、
「薄暮」、「琉璃渓」、「由布岳残照」、「阿蘇」、「柘榴などの静物」、「アンデス高原の女達」
など。
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