略歴 |
1898年 群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に生まれる。父は後に富岡町長となった。
1915年 旧制富岡中学校を卒業。第二高等学校英法科
1918年 東京帝国大学文学部入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門し、彫刻家を志す。
1922年 第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選。
1924年 渡仏。ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストに影響を受け、昭和初年に
シュールレアリズムを日本に紹介した。
1927年 この頃、彫刻をやめて絵画制作に本格的に取り組むようになる。
1930年 独立美術協会に参加。
1931年 帰国。第一回独立美術協会展(東京府美術館)に滞欧作が特別陳列され、当時の美術界に
衝撃を与える。
1939年 独立美術協会を脱退し、美術文化協会を結成。戦前の前衛美術運動に大きな刺激を与える。
1941年 治安維持法違反の嫌疑により逮捕され、世田谷署に拘置される。11月放免される。
以後終戦まで、前衛的な絵画活動をきびしく制限され、戦争協力画制作などに従事する。
1945年 東京大空襲の後軽井沢に家族と共に疎開。
1949年 美術文化協会を脱退。
1952年 文化自由委員会の日本代表として同会主催の国際フェスティバルに参加するため渡仏。
1953年 フランスからブラジルへ渡り、サンパウロ、ベレンなどの街に滞在。
1954年6月頃までブラジル、メキシコなどを旅行する。
1954年 帰国。この年美術文化協会に再入会。
1957年 第4回日本国際美術展に《埋葬》を出品、日本部の最高賞を受ける。美術文化協会を再脱退。
1965年 渡米。アメリカ留学中の長男夫妻を訪ねる。ニューヨークに移り制作に励む。
スペインに向かって10月、パリより帰国。
1976年 「福沢一郎展」が群馬県立近代美術館で開催される(~5月23日)。
1978年 文化功労者に選ばれる。
1988年 「福沢一郎展」が、群馬県立近代美術館と世田谷美術館で開催される。
1991年 文化勲章受章。
1992年 「文化勲章受章記念 福沢一郎展」が群馬県立近代美術館で開催される。
聖路加病院にて死去。20日に砧の聖愛教会で葬儀が行われる。
代表作に『他人の恋』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『科学美を盲目にする』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『よき料理人』 (1930年 神奈川県立近代美術館蔵)などがある。
2019年3月、「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」が東京国立近代美術館で開催[3]。
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