1972年(昭和42年)から翌年にかけて発生した、東海北陸地方を
中心に被害総額2億円を超える古美術や刀剣類の窃盗事件に関与し
たとして、当時33歳の人見友紀氏が家宅捜査を受けました。
隠しておいた刀剣類は見つからずに済みましたが、人見氏は
これ以上言い逃れはできないと観念し、妻に全てを打ち明けました。
すぐ後に新婚旅行で行ったことのある、香港へ高飛びをしました。
貯金を下ろし、お金をかき集め逃亡資金として用意しました。
その後妻と合流しタイへ渡りました。
タイに渡った際に呼んだ新聞には 自身が国際刑事警察機構(ICPO)
に捜査協力を要請したと言う記事を見ました。
国際指名手配にされてしまったという事です。これは日本の国際
指名手配第1号で、日本初の事でした。
そうして世界各地を転々とし、スペインのマドリードへ移り住ん
だ際に、絵を描くのが好きなのですが、 売れない画家であった
「アントニース」に出会いました、人見氏は彼に弟子入りし、
本気で画家を志しました。
その後、他者の力添えを借り、アテネにある「治外法権」の
米軍施設で画廊を持つと、描いた絵が飛ぶように売れました。
後に、ひそかに連絡を取り合っていた、実母から実父の死を
知らされ、1986年(昭和61年)自首することを決意しました。
かくして13年ぶりに帰国し
人見氏は懲役3年6か月を受けました。
服役中に「逃亡者の掟」という手記を出版。保釈後、岐阜県
に住むと「逃亡画家」を自称し、創作を続けました。
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