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人見友紀 「京・丹波郷」 F10号




















 
 作家名  人見友紀
 タイトル  京・丹波郷
 技法  キャンバスに油彩
 サイズ  F10号 
 額サイズ  64.3×72cm
 サイン  作品右下にサイン。額縁裏面に共シール貼付。
 状態  作品状態は良好。額所々スレあり。黄袋・タトウ箱。
 略歴
1940年 東京都生まれ
1977年 ギリシャのアテネに定住して洋画活動を始める
1981年 ヨーロッパ国際フェア美術展に初出展
1984年 西ドイツ ミュンヘンバロム画廊にて個展
1984年 ヨーロッパで数々の活動の後、ギリシャで人気画家となる
1986年 ギリシャより帰国
1995年 名古屋CBC画廊を始め、各地の画廊で個展、賞賛を浴びる
1997年 国際美術交流展(日本、韓国、中国)グランプリ受賞
1997年 国際文化交流 功労特別大賞受賞 アーチスト大賞受賞
1998年 ニューヨーク展グランプリ受賞
1998年 アートジャーナルフランス大賞受賞
1998年 「モナコ政府主催」の民間文化大使として出席。皇太子に絵を贈呈
1999年 国際芸術文化勲章受賞 逝去
概要・その他

本名、安雄(やすお)。東京都目黒区に生まれ、幼少時代から愛知県で過ごす。1973年古美術窃盗団に
関与して、盗品を売買をしたことが発覚。愛知県警の摘発により逮捕寸前に海外逃亡を図り、以来、
国際手配の第1号犯として119カ国に手配されながら、香港を皮切りにヨーロッパ各地9カ国を移住。
そうした逃亡中にスペインの画家アントニース・クレタと知り合って絵画の世界に目覚めギリシャで人気
画家の地位を築く。
1986年、13年間の逃亡生活にピリオドを打って帰国、"日本のジャンセン""逃亡画家"などとマスコミの
集中報道となり、その後は「逃亡の掟」、「許される日はいつ」などの著作を獄中出版、時の人物として
話題を呼んだ。

1972年(昭和42年)から翌年にかけて発生した、東海北陸地方を中心に被害総額2億円を超える
古美術や刀剣類の窃盗事件に関与したとして、当時33歳の人見友紀氏が家宅捜査を受けました。
隠しておいた刀剣類は見つからずに済みましたが、人見氏はこれ以上言い逃れはできないと観念し、
妻に全てを打ち明けました。
すぐ後に新婚旅行で行ったことのある、香港へ高飛びをしました。貯金を下ろし、お金をかき集め
逃亡資金として用意しました。
その後妻と合流しタイへ渡りました。
タイに渡った際に呼んだ新聞には 自身が国際刑事警察機構(ICPO)に捜査協力を要請したと言う
記事を見ました。
国際指名手配にされてしまったという事です。これは日本の国際指名手配第1号で、日本初の事でした。
そうして世界各地を転々とし、スペインのマドリードへ移り住んだ際に、絵を描くのが好きなのですが、
売れない画家であった
「アントニース」に出会いました、人見氏は彼に弟子入りし、本気で画家を志しました。
その後、他者の力添えを借り、アテネにある「治外法権」の米軍施設で画廊を持つと、描いた絵が
飛ぶように売れました。後に、ひそかに連絡を取り合っていた、実母から実父の死を
知らされ、1986年(昭和61年)自首することを決意しました。かくして13年ぶりに帰国し人見氏は懲役
3年6か月を受けました。
服役中に「逃亡者の掟」という手記を出版。保釈後、岐阜県に住むと「逃亡画家」を自称し、
創作を続けました。

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