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平野遼 「木のある風景」 SM


























 作家名  平野遼
 タイトル  木のある風景
 技法  キャンバスに油彩
 サイズ  SM 
 額サイズ  40x33p
 サイン  画面左下にサイン。キャンバス裏面にサイン、タイトル。
 状態  作品・額表(古径製)ともに、状態は良好です(裏端ハゲあり)。クロス箱・黄袋付き。
 略歴


平野遼 ヒラノリョウ

1927年 2月8日、大分県北海郡に生まれる。本名明。
1933年 戸畑市沢見尋常小学校に入学。3年生の頃から技法書等により水彩、鉛筆、墨彩画などの技法を
    独学する一方、通信教育で挿絵を学ぶ。
1939年 戸畑男子高等小学校を卒業。3歳で母を、1940年13歳で父をなくして同年より徴用工として働く。
1945年 除隊後戸畑に帰るが、
1949年 上京。ポスター、似顔絵の制作、ウインドウ装飾等で生計を立てる
1949年 第13回新制作派展に蝋画「やまびこ」で初入選。
1951年 第15回自由美術家協会展に「詩人」で初入選し、以後同展に出品を続ける。
1953年 第17回自由美術家協会展に「白い家」「兄弟」を出品して優秀作家賞を受賞。この頃より
    糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの知遇を得る。
1956年 第20回自由美術家協会展に蝋画「夜」を出品して佳作賞、
1957年 第21回自由美術家協会展に水彩画「飛べない蝶」を出品して2年連続して佳作賞を受ける
1958年 自由美術家協会展会会員に推される。
1959年 第13回日本アンデパンダン展に「爆発」を出品。
1962年 第5回現代日本美術展に「修羅A」「修羅B」を出品するとともに、
    前年の第25回自由美術家協会展出品作「像」を第5回安井賞展に出品する。
1964年 9月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年10月主体美術協会
    を設立。以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、
1975年 主体美術協会を退会して無所属となった。
1978年 6月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。
1979年 7月には中央アジア、同年9月には、東独、チェコ、オーストリアへ旅行。
    その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。
    画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も
    描いたが、昭和30年代に抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風
    へと展開した。
1986年 12月、池田20世紀美術館で「平野遼の世界展」が
1987年 6月北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開かれた。
1992年 九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家平野遼は、
    11月24日午後11時48分、心不全のため北九州市小倉北区の新小倉病院で死去した。享年65才。

作品集には『平野遼素描集』(大阪フォルム画廊 昭和47年)、『平野遼自選画集』(小学館 昭和52年)等
がある。文章もよくし画文集『地底の宮殿』等の著書がある。


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