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長谷川潔 「四角い塔のある風景」 F30号


















長谷川潔は、フランスに渡りデュフィやブラマンク、ロ−ランサン、マティス、ピカソ、シャガ−ルな どと交友を持ち、1923年にはサロン・ド−トンヌに油彩画を出品するなど、当初パリの様々なサロンに油彩画を出品していましたが、そのほとんどが画家個 人が所蔵し市場に出回ることは稀でした。
長谷川 潔は、1891年(明治24年)銀行家であった長谷川一彦の長男として神奈川県横浜市に生まれた。裕福な家庭に育ち、小学生の頃より父から論語の素読や 書、日本画などを教わる。大阪在住の1902年(明治35年)に父・一彦が死去、東京の麻布に転居する。長谷川は虚弱体質であったため、勤め人は無理だと 判断され、好きであった美術の道へ進む。麻布中学校卒業前に母・欣子が死去する。1910年(明治43年)に麻布中学校を卒業した後、葵橋洋画研究所で黒 田清輝から素描を、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二から油彩を学ぶ。また、バーナード・リーチからはエッチング技法の指導を受けている。その後、 1913年(大正2年)に文芸同人誌『仮面』に参加、表紙や口絵を木版画で製作する。日夏耿之介や堀口大學の本の装幀なども担当した。1918年(大正7 年)、版画技術の習得の為フランスへ渡航。翌年の4月4日にパリに到着するが、静養のため10月から南フランスに約三年間滞在。その間、版画技法の研鑽を 積む。そしてパリに戻り、1923年(大正12年)からサロン・ドートンヌ等のサロンや展覧会に作品を出品。1925年(大正14年)には初の版画の個展 を開き、高い評価を得る。翌年にはサロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築いた。しかし、1939年(昭和14年)に第二次世 界大戦が勃発すると、長谷川の生活は一変する。フランス在住の多くの画家が帰国してしまう中、長谷川はフランスに留まるが、パリを離れることを余儀なくさ れる。その為サルト県にある斎藤豊作邸に疎開、その後もボルドー、ビアリッツなどを転々とする。一時パリに戻り製作を続けるが、経済的にも健康面でも苦し い日々を送った。1945年(昭和20年)にはパリ中央監獄、ドランシー収容所に収監されるも、知人の助力もあり約一ヶ月後に解放される。戦後、再び創作 を再開。銅版画に没頭し、様々な技法を最高の域まで高める。そして最後には自らが復活させたメゾチントに没頭、数々の名作を発表した。1980年(昭和 55年)12月13日、パリの自宅で老衰のため没。89歳。渡仏してから一度も日本へ帰ることはなかった。  




   
 作家名   長谷川潔  
 タイトル   四角い塔のある風景
 技法   キャンバスに油彩
 サイズ   F30号 
 額サイズ   76.2x95.2cm
 サイン   右下にサイン 作品裏に、スタンプサイン。
  作品裏に、現地(フランス)のオークションシール貼付。
 状態   作品コンディション:概ね良好(部分的にヒビがあります)
 略歴


1891年横山出身
1916年広島晃甫(広島新太郎)、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成
1918年フランスに渡る
1928年春陽会会員
1931年日本版画協会創立会員
1935年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章
1939年第二次世界大戦勃発
1943年ミシェリーヌ・M・ビアンキと結婚
1945年パリ中央監獄、ドランシー収容所に収監される
1964年フランス芸術院コレスポンダン会員
1966年フランス文化勲章を受章
1966年現代日本美術展で特賞を受賞
1967年勲三等瑞宝章を授与される
1980年京都国立近代美術館で大回顧展「銅版画の巨匠・長谷川潔展」が開催
1980年没


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