ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで、裕福な公証人の息子として生まれた。母親も富裕な商家出身だった。ダリには幼くして死んだ兄がいて、同じ「サルバドール」という名が付けられた。このことは少年ダリに大きな心理的影響を与えた。
少年時代から絵画に興味を持ち、画家ラモン・ピショット(ピカソの友人でもあった)から才能を認められた。1922年、マドリードのサンフェルナンド美術学校に入学し、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合った。ブニュエルとは、1928年にシュルレアリスムの
代表的映画『アンダルシアの犬』を共同で制作した。
1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開く。
1927年、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンらの面識を得る。
1929年夏、詩人ポール・エリュアールが家族とともにカダケスのダリを訪ねる。
その妻が、後にダリ夫人となるガラ・エリュアールであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。
画学生時代には印象派やキュビスムの影響を受けていたダリは、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。
ダリは1938年にグループから除名されているが、その理由は彼の「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからとされる。しかし彼の人気は非常に高かったため、そのあとも国際シュールレアリスム展などには必ず招待された。
ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法 (Paranoiac Critic)」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような超現実的世界を描いた。第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、またマネージャーでもあった。
第二次世界大戦中は戦禍を避けてアメリカ合衆国に住んだが、1948年にスペインに帰国。
ポルト・リガトに居を定めて制作活動を行った。
1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落胆し、ジローナのプボル城に引きこもった。最後に絵を描いたのは1983年5月である。
1989年にフィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で、心不全により85歳の生涯を閉じた。
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