サルバドール・ダリ(Salvador Dalí カタルーニャ語: [səɫβəˈðo dəˈɫi] スペイン語: [salβaˈðoɾ ðaˈli]、初代ダリ・デ・プブル侯爵
Marqués de Dalí de Púbol (es)、1904年5月11日 - 1989年1月23日)は、スペイン・フィゲーラス出身の画家。シュルレアリスムの代表的な作家として知られる。
フルネームはカタルーニャ語でサルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク (Salvador Domènec Felip Jacint
Dalí i Domènech)。「天才」と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が知られている。
1904年 5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲーラスで、裕福な公証人サルバドール・ダリ・イ・
クシ (Salvador Dalí i Cusí)の息子として生まれた。
母親フェリパ(旧姓ドメネク・フェレス)も富裕な商家出身で、一族は自らをユダヤ系の血筋と
信じている。ダリには幼くして死んだ兄がいて、同じ「サルバドール」という名が付けられて
いた。このことは少年ダリに大きな心理的影響を与えた。
少年時代から絵画に興味を持ち、パブロ・ピカソの友人であった画家のラモン・ピショット
(en:Ramon Pichot)から才能を認められた。
1922年 マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学し、フェデリコ・ガルシーア・
ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合った。ブニュエルとは、
1928年 にシュルレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作した。
1925年 マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開いた。
1927年 パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、
アンドレ・ブルトンら、シュルレアリスムの中心人物たちと面識を得た。
1929年 夏、ポール・エリュアール[3]が妻とともにカダケスのダリを訪ねた。これが後にダリの妻となる
ガラ・エリュアールとの出会いであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。
王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生時代には、印象派やキュビスムなどの影響も受けて
いたが、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、
1929年 に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。ダリは
1938年 にグループから除名されたが、その理由はダリの「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの
逆鱗に触れたからであった。
1939年 にはブルトンはダリの作品が商業的になっていくのをからかって,"Avida Dollars"「ドルの亡者」
というあだ名をダリに与えた。(これはSalvador Dalíのアナグラムであり,音声的にはフランス語
"avide à dollars"「ドルをむさぼる」と同音である)。しかしダリの人気は非常に高かったため、
グループを除名されたあとも国際シュールレアリスム展などには必ず招待された。
ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法 (Paranoiac Critic)」と称し、写実的描法を用い
ながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描いた。またバロックを代表する画家
ヨハネス・フェルメールを高く評価していた。著書の中で、ほかの画家を採点したとき、
フェルメールに最高点をつけている。「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できる
ならこの右腕を切り落としてもいい」と述べたこともあった。
第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリ
のミューズであり、支配者であり、またマネージャーであった。
第二次世界大戦中は戦禍を避けてアメリカ合衆国に移住したが、1948年にスペインに帰国。
ポルト・リガト (en:Port Lligat)に居を定めて制作活動を行った。
1982年 にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、ジローナのプボル城に
引きこもった。1983年5月を最後に絵画制作をやめている[注釈 1]。
1984年 には寝室でおきた火事でひどいやけどを負い、フィゲラスに移った。
1989年 にフィゲラスのダリ劇場美術館(en:Dalí Theatre and Museum)に隣接するガラテアの塔で、
心不全により死去。85歳没。
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