<その10>に戻る


山本丘人 「湖上烟雨」 F12号





























   
 作家名   山本丘人 
 タイトル   湖上烟雨
 技法   紙本・岩彩
 サイズ   F12号 
 額サイズ   70.7x81.7cm
 サイン   画面左下に落款・印章。 額裏に、共シールあり。  
 状態   作品の状態は、良好です。 額装は小キズなど、多少経年感があります。
  黄袋・茶挿箱付き。
 略歴


1900年(明治33)4月15日、東京市下谷区上野広小路11番地(現・台東区上野3丁目)に、父昇(東京音楽学校書記)と母ぬい(縫)の一人息子として生まれる。本名正義(まさよし)。ただし実際の出生は1月8日麻布ともいい、出生直後に東京音楽学校官舎に転居し、出生届けを出したと言われる。
1902年(明治35)下谷区上野桜木町34番地に転居する。
1907年(明治40)東京市下谷区根岸尋常小学校に入学。
1913年(大正2)東京市下谷区根岸尋常小学校を卒業。東京府立第三中学校(現・都立両国高校)に入学。
1915年(大正4)東京府立工芸学校金属細工科(現・都立工芸高等学校)へ転入、彫金を学ぶとともに、在学中に広瀬東畝、篠田柏邦に日本画の手ほどきを受ける。
1918年(大正7)1月、父昇死去(享年数え年53)。11月、第1回国画創作協会第1回展を見学し感銘を受ける。
1919年(大正8)3月21日、府立工芸学校卒業。4月、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)予備科日本画科に入学。
1920年(大正9)夏休みの課題コンクールに『娘之坐像』を出品。教授の松岡映丘に高く評価され、以後薫陶を受ける。
1921年(大正10)日本画科選科に編入。この年『婦女坐像(青梅)』を制作。
1924年(大正13)3月24日、同校卒業。卒業制作『白菊』。卒業後、映丘主催の画塾、木之華社に入門。
1925年(大正14)第六回帝展に出品するが落選。この頃、本郷洋画研究所に通う。
1926年(大正15年・昭和元年)新興大和絵会第6回展に出品、以後昭和6年解散時まで毎年出品。
1927年(昭和2)新興大和絵会第7回展に直垂姿の松岡映丘(画人の像)を出品。
1928年(昭和3)第9回帝展に『公園の初夏』が初入選。
1929年(昭和4)新興大和絵賞・会友に推薦される。
1930年(昭和5)第11回帝展に『不忍池』が初入選。この作品から雅号「丘人」を使い始める。以後第14回まで連続して入選。
1932年(昭和7)1月、大野美代と結婚。7月、資生堂ギャラリーにて個展開催。
1934年(昭和9)映丘門下の杉山寧、浦田正夫、岡田昇、松岡貞夫らと新日本画研究会「瑠爽画社」を結成。夏、伊豆に取材旅行をする。
1936年(昭和11)6月、東京府北多摩郡小金井村貫井243(現・小金井市貫井南町4)に転居。10月、文部省美術展覧会鑑査展に『海の微風』を出品、選奨。
1938年(昭和13)3月、師、松岡映丘逝去(享年58)
1939年(昭和14)1月、文展、院展作家12名による「綵尚会」(関尚美堂主催)会員となる。
1940年(昭和15)5月頃、「瑠爽画社」解散。6月、高島屋主催「青丘会」会員となる。岡田昇らが「一采社」を結成、顧問格となる。
1942年(昭和17)第5回新文展に無鑑査出品。
1943年(昭和18)川崎小虎を代表として加藤栄三、東山魁夷らと「国土会」を結成。
1944年(昭和19)安田靫彦に呼ばれ、東京美術学校日本画科助教授となる。
1946年(昭和21)文部省主催第2回日本美術展覧会(日展)審査員として『望流』を出品。
1947年(昭和22)5月末頃、向井万吉、広田多津、吉岡堅二、福田豊四郎らと下諏訪へ旅行する。第3回日展審査員として出品するが、審査、授賞選考方法に不満を感じる。女子美術専門学校(現・女子美術大学)教授となる。
1948年(昭和23)1月、上村松篁、秋野不矩、吉岡堅二、福田豊四郎、加藤栄三、澤宏靭、橋本明治、高橋周桑、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、広田多津ら13名で「創造美術」を結成。
1949年(昭和24)2月から毎月、創造美術研究会を開催。第2回創造美術展に『草上の秋』を出品。
1950年(昭和25)『草上の秋』に対して芸術選奨美術文部大臣賞が贈られる。岡鹿之助との交友が始まる。
1951年(昭和26)3月、橋本明治、加藤栄三、東山魁夷、森田沙夷、杉山寧と「未更会」発足。9月、創造美術が新制作派協会(洋画、彫刻、建築)と合同し、新制作協会日本画部となる。12月、国土会解散。東京芸術大学、女子美術大学を辞職。
1952年(昭和27)ヴェネツィア・ビエンナーレに『山麓』を出品する。
1954年(昭和29)山本丘人、小倉遊亀、吉岡堅二を会員として高島屋主催「鼎会」を発足。
1956年(昭和31)山本丘人、奥村土牛、岡鹿之助、中川一政を会員として兼素洞主催「雨晴会」発足。
1957年(昭和32)ブリジストン美術館で個展開催。
1959年(昭和34)3月、貨物船にて渡欧。4月〜6月パリ到着滞在後イタリアを巡る。パリでは岡鹿之助と行動を共にする。
1960年(昭和35)9月、神奈川県中郡大磯町瀧之沢に転居。第25回新制作展に『夕焼け山水』出品。
1963年(昭和38)山本丘人、東山魁夷、杉山寧、高山辰雄、西山英雄を会員として孔雀画廊主催「五山会」が発足。
1964年(昭和39)5月、『異郷落日』に対して日本芸術院賞が贈られる。
1968年(昭和43)サカモト画廊主催「十一月会」発足。
1972年(昭和47)4月、東急百貨店(東京・渋谷)にて「山本丘人展」開催。
1974年(昭和49)5月、新制作協会日本画部全会員が退会し、新たに「創画会」発足。7月、日展、院展、創画会の会員により「遊星会」発足。
1977年(昭和52)11月、文化勲章授章、文化功労者顕彰。12月、山本丘人、上村松篁、杉山寧、高山辰雄、東山魁夷を会員として兼素洞主催「白虹会」発足。
1983年(昭和58)6月、軽い脳溢血を起こし静養。7月、遊星展終了。
1985年(昭和60)6月、美代夫人没。12月、病に倒れ入院。
1986年(昭和61)2月10日、急性心不全のため逝去、享年85。

 評価
 発送


Yahoo!かんたん決済がご利用いただけます