<その4>


榊莫山 「柱時計」 10号

















   
 作家名  榊莫山  
 タイトル  柱時計
 技法  紙本・彩色
 サイズ  10号 48.8×51.1cm
 額サイズ  70.8×73.3cm
 サイン  作品左下にサイン、印譜 
 状態  作品状態は概ね良好(柱という文字の下に1か所点しみあり)。額所々小傷あり。タトウ箱
 略歴
京都府相楽郡大河原村南大河原(現・南山城村)にて、小学校の校長の長男として生まれ、三重県名賀郡古山村菖蒲池(現・伊賀市)で育つ。
1938年、三重県立上野中学校 (旧制)に入学。同校では、書を松永楳園に、油絵を佐々木三郎に学ぶ。
1943年に同校を卒業し、三重師範学校(現・三重大学教育学部)に入学。
在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える。
敗戦と同時に三重に帰郷し、聴講生として京都大学文学部の井島勉に美学を学ぶ。
隣村の国民学校(現在の公立小学校に相当)に小学校の教員として勤務。教員時代には公立学校の教職員組合活動にも参加したことがあった。
1946年、奈良国立博物館の第1回正倉院展を観に行った足で奈良在住の書家・辻本史邑に入門し、書の道に入る。
日本書芸院展に出品した漢詩で推薦一席(最高賞)を1951年から2年連続で受賞するなど20代の頃から頭角をあらわし、
辻本の死を機に1958年に日本書芸院や上田桑鳩の奎星会を退会して書壇から退き、以後は独自の世界を展開させ、自分の主宰する団体を立ち上げた。
自身の主宰する団体で多くの弟子を育てた。弟子には東大寺の歴代の管長や、近畿大学文芸学部講師の岸玲州と喜家村信一に荻野丹雪など。
末弟には川合正宏(近畿大卒。奈良教育大学大学院修了)など大勢いる。近畿大学文芸学部出身の弟子も多くいる。
榊莫山は在野ではない。書道団体を立ち上げ、会の名前は山径社→墨象展→墨の芸術展→莫門展→墨象展と幾度か変更したり戻したりしている。
故郷の伊賀から、大阪へ移住し、大阪府大阪市や八尾市に居住し、作品を創り続けていたが、やがて故郷の伊賀へ戻り、伊賀で作品を創り続けた。
50歳を過ぎて自然豊かな故郷の伊賀に戻ってからは、山野を歩き、自然に着想を求めた素朴な画にフレーズを添えた独特の書画」世界を確立した[6]。
2010年10月3日、急性心不全のため、奈良県天理市の病院で死去。84歳没。