<その17>に戻る


北川民次 「名護蘭」 F6号

















 作家名  北川民次
 タイトル  名護蘭
 技法  キャンバスに油彩
 サイズ  F6号  
 額サイズ  64.0×45.0cm
 サイン  作品の左下にサイン有り。日本洋画商協同組合鑑定付き
 状態  作品、額縁の状態は良好。
 略歴
1894年 静岡県島田市に生まれる。
1910年 早稲田大学予科に入学。油絵を描き始める。
1914年 早稲田大学予科を中退し、渡米。
1918年 アート・ステューデンツ・リーグに通い、ジョン・スローンに学ぶ。学友に国吉康夫。
    *〜20年。
1921年 キューバを経て、メキシコに入国。*のちにオロスコ、リベラ、シケイロスらと交友。
1923年 メキシコにて初個展。
1925年 トラルパム野外美術学校に勤務、児童美術教育に携わるようになる。*32年同校閉校。
1932年 タスコ野外美術学校校長。*36年同校閉鎖。
1936年 日本での児童美術教育研究を志し、帰国。
1937年 第24回二科展に出品、会員となる。*以後出品を重ねる。
1943年 愛知県瀬戸市に疎開。
1947年 第1回美術団体連合展。*以後出品を重ねる。
1951年 北川児童美術学園開設。
1952年 第1回日本国際美術展。*以後出品を重ねる。
    日本近代美術展-近代絵画の回顧と展望(国立近代美術館)。
1953年 愛知県教育功労者。
1957年 北川民次・須田国太郎展(神奈川県立近代美術館)。
1959年 名古屋CBCビルに大理石モザイク壁画を制作。
1961年 二科会副会長、
1966年 飯田画廊、日動画廊で個展開催。
1973年 画業60年回顧展開催。
1978年 二科会会長に推挙される。同年に辞任。二科会退会。個展(日動画廊,東京)。
1964年 第6回現代日本美術展で優秀賞受賞。
1986年 メキシコ政府よりアギラ・アステカ勲章受章。
1989年 死去。享年95才個展(名古屋市美術館、他)。
1996年 個展(愛知県美術館、他)。
2007年 メキシコと北川民次展(浜松市美術館)。
2009年 個展(瀬戸市美術館)。

[詳細]
特特なデフォルメによる生命感あふれる作風で知られ、はやくから児童美術教育のすぐ
れた実践者でもあった北川民次は、明治27(1894)年1月17日静岡県榛原郡に生ま
れた。
生家は農業で製茶業を営み、アメリカへも茶を輸出していた。
明治43年県立静岡商業学校を卒業し早稲田大学へ入学したが、
大正2年中退しカリフォルニア在住の伯父を頼って渡米した。
大正3年ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに入り、社会的主題を描いた
ジョン・スローンに師事、ここで国吉康雄と相識った。
大正10年、アート・ステューデンツ・リーグを卒業するまでの間、苦学を重ね主に舞台
美術家として生計をたてていた。
大正12年、アメリカ南部からキューバへ放浪、同年9月メキシコのオリサバに着き、
サンテーロ(聖画行商人)となって村々を転々とした。
同年中、サンカルロス美術学校に入学、特待生となり3カ月で卒業する。
大正13年、チュルブスコ村の旧僧院で研修する画学生の一員となり、この頃、リベラ
、オロスコ、シケイロスらと交際、彼らの推進する野外美術学校に関わることになり、
大正14年からのトランバムの野外美術学校奉職を経て、昭和6年タスコに移した野外
美術学校の校長となった。
昭和8年には、メキシコ旅行中の藤田嗣治が訪問する。
昭和11年、学校を閉鎖して帰国し、一時愛知県瀬戸市に寓居した。
昭和12年上京し豊島区長崎仲町1−241に居住、藤田嗣治の紹介で同年の第24回
二科展に「メキシコ、タスコの祭日」「同、銀鉱の内部」「同、悲しき日」「メキシコの三人娘」
「瀬戸の工場」を出品し、会員に推挙された。
同年、数寄屋橋の日動画廊で第1回目の個展「メキシコ作品展」を開催する。
昭和13年久保貞次郎を知る。戦前は、二科展の他、聖戦美術展(昭和14年)、
紀元二千六百年奉祝美術展(昭和15年)、新文展(昭和18年)にも出品した。
昭和18年、瀬戸市安土町23番地に転居し、以後同地に定住した。
戦後は、二科展をはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、
国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに制作発表を行う。
その間、瀬戸の民衆生活を題材に、独自のデフォルメによる原始的な生命感の横溢する
作風を展開、
1960年代からは色彩の上で一転し、それ以前のいわゆる「灰色の時代」から鮮烈な原色
の明るさをました。
一方、メキシコ時代に身につけた銅版画をはじめ、石版、木版画もよくした。
また、児童美術教育にも力を注ぎ、昭和24年名古屋市東山動物園内に名古屋動物園
美術学校を開設(昭和26年迄)、
昭和26年名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立、翌27年には創造美育協会の
創立に発起人として参加した。
昭和30年から翌年にかけ、メキシコを再訪したのち、中南米、フランス、スペイン、
イタリアを巡遊する。
昭和39年、第6回現代日本美術展出品作「哺育」で優秀賞を受賞。
昭和48年東急日本橋店他で「画業60年北川民次回顧展」(毎日新聞社主催)が開催
された。
昭和53年、東郷青児の死去のあと二科会会長に推されたが、「残る人生は、ただ描く
ために」と同年9月会長を辞し、翌年二科会も退会した。
『北川民次画集』(昭和31年、美術出版社、同49年、日動出版)のほか、
『絵を描く子供たち』(岩波新書、同27年)、『子供の絵と教育』(同28年、創元社)、
『メキシコの誘惑』(同35年、新潮社)などの著書がある。
元二科会会長の洋画家北川民次は、平成元年(1989)4月26日肺線維症のため愛知県
瀬戸市の陶生病院で死去した。享年95才。

 評価
 発送