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北川民次 「ガーベラとハルシャ菊」 F6号


























 作家名  北川民次
 タイトル  ガーベラとハルシャ菊
 技法  キャンバスに油彩
 サイズ  F6号 
 額サイズ  54x44.7cm
 サイン  作品の右下にサイン有り。 額裏に、共シールあり。 
 状態  作品・額装ともに、状態は良好です。クロス箱・黄袋付き。
 略歴
1894年 静岡県島田市に生まれる。
1910年 早稲田大学予科に入学。油絵を描き始める。
1914年 早稲田大学予科を中退し、渡米。
1918年 アート・ステューデンツ・リーグに通い、ジョン・スローンに学ぶ。学友に国吉康夫。*〜20年。
1921年 キューバを経て、メキシコに入国。*のちにオロスコ、リベラ、シケイロスらと交友。
1923年 メキシコにて初個展。
1925年 トラルパム野外美術学校に勤務、児童美術教育に携わるようになる。*32年同校閉校。
1932年 タスコ野外美術学校校長。*36年同校閉鎖。
1936年 日本での児童美術教育研究を志し、帰国。
1937年 第24回二科展に出品、会員となる。*以後出品を重ねる。
1943年 愛知県瀬戸市に疎開。
1947年 第1回美術団体連合展。*以後出品を重ねる。
1951年 北川児童美術学園開設。
1952年 第1回日本国際美術展。*以後出品を重ねる。
    日本近代美術展-近代絵画の回顧と展望(国立近代美術館)。
1953年 愛知県教育功労者。
1957年 北川民次・須田国太郎展(神奈川県立近代美術館)。
1959年 名古屋CBCビルに大理石モザイク壁画を制作。
1961年 二科会副会長、
1966年 飯田画廊、日動画廊で個展開催。
1973年 画業60年回顧展開催。
1978年 二科会会長に推挙される。同年に辞任。二科会退会。個展(日動画廊,東京)。
1964年 第6回現代日本美術展で優秀賞受賞。
1986年 メキシコ政府よりアギラ・アステカ勲章受章。
1989年 死去。享年95才個展(名古屋市美術館、他)。
1996年 個展(愛知県美術館、他)。
2007年 メキシコと北川民次展(浜松市美術館)。
2009年 個展(瀬戸市美術館)。

[詳細]
特特なデフォルメによる生命感あふれる作風で知られ、はやくから児童美術教育のすぐ
れた実践者でもあった北川民次は、明治27(1894)年1月17日静岡県榛原郡に生ま
れた。
生家は農業で製茶業を営み、アメリカへも茶を輸出していた。
明治43年県立静岡商業学校を卒業し早稲田大学へ入学したが、
大正2年中退しカリフォルニア在住の伯父を頼って渡米した。
大正3年ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに入り、社会的主題を描いた
ジョン・スローンに師事、ここで国吉康雄と相識った。
大正10年、アート・ステューデンツ・リーグを卒業するまでの間、苦学を重ね主に舞台
美術家として生計をたてていた。
大正12年、アメリカ南部からキューバへ放浪、同年9月メキシコのオリサバに着き、
サンテーロ(聖画行商人)となって村々を転々とした。
同年中、サンカルロス美術学校に入学、特待生となり3カ月で卒業する。
大正13年、チュルブスコ村の旧僧院で研修する画学生の一員となり、この頃、リベラ
、オロスコ、シケイロスらと交際、彼らの推進する野外美術学校に関わることになり、
大正14年からのトランバムの野外美術学校奉職を経て、昭和6年タスコに移した野外
美術学校の校長となった。
昭和8年には、メキシコ旅行中の藤田嗣治が訪問する。
昭和11年、学校を閉鎖して帰国し、一時愛知県瀬戸市に寓居した。
昭和12年上京し豊島区長崎仲町1−241に居住、藤田嗣治の紹介で同年の第24回
二科展に「メキシコ、タスコの祭日」「同、銀鉱の内部」「同、悲しき日」「メキシコの三人娘」
「瀬戸の工場」を出品し、会員に推挙された。
同年、数寄屋橋の日動画廊で第1回目の個展「メキシコ作品展」を開催する。
昭和13年久保貞次郎を知る。戦前は、二科展の他、聖戦美術展(昭和14年)、
紀元二千六百年奉祝美術展(昭和15年)、新文展(昭和18年)にも出品した。
昭和18年、瀬戸市安土町23番地に転居し、以後同地に定住した。
戦後は、二科展をはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、
国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに制作発表を行う。
その間、瀬戸の民衆生活を題材に、独自のデフォルメによる原始的な生命感の横溢する
作風を展開、
1960年代からは色彩の上で一転し、それ以前のいわゆる「灰色の時代」から鮮烈な原色
の明るさをました。
一方、メキシコ時代に身につけた銅版画をはじめ、石版、木版画もよくした。
また、児童美術教育にも力を注ぎ、昭和24年名古屋市東山動物園内に名古屋動物園
美術学校を開設(昭和26年迄)、
昭和26年名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立、翌27年には創造美育協会の
創立に発起人として参加した。
昭和30年から翌年にかけ、メキシコを再訪したのち、中南米、フランス、スペイン、
イタリアを巡遊する。
昭和39年、第6回現代日本美術展出品作「哺育」で優秀賞を受賞。
昭和48年東急日本橋店他で「画業60年北川民次回顧展」(毎日新聞社主催)が開催
された。
昭和53年、東郷青児の死去のあと二科会会長に推されたが、「残る人生は、ただ描く
ために」と同年9月会長を辞し、翌年二科会も退会した。
『北川民次画集』(昭和31年、美術出版社、同49年、日動出版)のほか、
『絵を描く子供たち』(岩波新書、同27年)、『子供の絵と教育』(同28年、創元社)、
『メキシコの誘惑』(同35年、新潮社)などの著書がある。
元二科会会長の洋画家北川民次は、平成元年(1989)4月26日肺線維症のため愛知県
瀬戸市の陶生病院で死去した。享年95才。

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