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林武 「静物(魚)」 P8号


























  
 作家名  林武
 タイトル  静物(魚)
 技法  キャンバスに油彩
 サイズ  P8号 33×45㎝ 
 額サイズ  56×67㎝
 サイン  画面右下隅に、直筆サイン。画集掲載作 
 状態  作品の状態は、若干イタミがあります。額装の状態は、経年の感あり。
 略歴


(作家略歴)
1896年 東京に生まれる。
    東京歯科医学校に学ぶ
1920年 日本美術学校に入学、同年中退。
1921年 第8回二科展で「婦人像」が初入選、樗牛賞受賞。
1922年 第9回ニ科展でニ科賞受賞。
1923年 萬鉄五郎を中心とした「円鳥会」に参加
1926年 「1930年協会」会員となる。佐伯祐三、里見勝蔵らと活動する。
1930年 二科会を脱退。独立美術協会創立に参画する。
1934年 渡仏(~35年)
1937年 明治大正昭和三聖代名作美術展出品(大阪市立美術館)
1949年 第1回毎日美術賞受賞。
1951年 東京芸術大学の教授に就任。(~63年)
1956年 個展開催(銀座松坂屋)
1959年 日本芸術院賞受賞
1961年 画集刊行「林武」(美術出版社)
1963年 画集刊行「林武 デッサン集」(美術出版社)。 個展開催(日動画廊)
1965年 著書刊行「美に生きる 私の体験的絵画論」(講談社現代新書)
1967年 文化勲章受章。朝日文化賞受賞
1969年 個展開催(銀座資生堂ギャラリー)
1970年 画集刊行「画業50年記念『林武展』記念画集」(毎日新聞社)
1975年 没(享年79歳)
1975年 「林武展」開催(日本橋高島屋)
1987年 「林武素描展」開催(西武百貨店)
1996年 「生誕100年記念展」開催(東京都庭園美術館)
2005年 画集刊行「林武全画集」(日動出版部)

所蔵/東京国立近代美術館、愛知県美術館、茨城県近代美術館、
新潟県立近代美術館、三重県立美術館、静岡県立美術館、
兵庫県立近代美術館、信州高遠美術館、玉川近代美術館、
北九州市立美術館、彫刻の森美術館、大分県立芸術会館、
大原美術館、ふくやま美術館、福岡市美術館、他

(画家経歴)
1896年(明治29年)- 12月10日、東京市麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。
    武の父・甕臣(みかおみ)は国語学者、祖父・甕雄(みかお)は歌人、曽祖父・国雄は
    水戸派の国学者だった。
1909年(明治42年)- 牛込区余丁町小学校を卒業。同小学校では東郷青児が同級生で、担任の先生
    だった本間寛に東郷とともに画才を見出される。
1910年(明治43年)- 早稲田実業学校に入学、学費が払えず実家が営んでいた牛乳販売店で労働
    しながら通学するが、体調を崩して中退する。
1913年(大正2年)- 東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。
1917年(大正6年)- 新聞や牛乳の配達、ペンキ絵を描いたりして生計を立て画家を志す。
1920年(大正9年)- 日本美術学校に入学するが、翌年には中退する。
1921年(大正10年)- 第8回二科展にて初入選し、樗牛賞を受ける。渡辺幹子と結婚。
1922年(大正11年)- 妻幹子をモデルにした「本を持てる婦人像」を制作。
1923年(大正12年)- 関東大震災被災のため、神戸に移住する。
1928年(昭和3年)-「横たわれる女」制作。
1930年(昭和5年)- 二科会を脱退。独立美術協会を創立する。「裸婦」を制作。
1934年(昭和9年)- 3月 渡欧。フランス(パリ)・ベルギー・オランダ・イギリス・ドイツ・
    スペインを訪れる。「コワヒューズ」を制作。
1935年(昭和10年)- 東京都中野区新井町に居を移す。「裸婦」を制作。
1937年(昭和12年)- 7月 松坂屋で滞欧作展を開く。
1938年(昭和13年)-「室戸岬風景」を制作。
1940年(昭和15年)- 皇紀2600年奉祝美術展覧会に「肖像」を出品。
1942年(昭和17年)-「静物」を制作。
1944年(昭和19年)- 持病の胃潰瘍が悪化、静養をかねて西多摩郡網代村にこの年から2年間
    疎開する。
1946年(昭和21年)-「うつむき女」を制作。
1948年(昭和23年)-「静物」を制作。この年から坂上星女をモデルにした連作を描き始める。
1949年(昭和24年)-「梳る(くしけずる)女」、「静物(鯖)」を制作。第1回毎日美術賞を受ける。
1950年(昭和25年)- 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に前々年制作の「静物」
    を出品。「星女嬢」を制作。
1952年(昭和27年)- 安井曾太郎の後任として、東京芸術大学美術学部教授に就任。
1953年(昭和28年)- 風景に題材を求め十和田に滞在。「十和田湖」の5点の連作を生む。
    「横向き少女」を制作。
1954年(昭和29年)-「斜面の顔」「ネッカチーフの少女」を制作。
1956年(昭和31年)-「伏目の女」で現代日本美術展大衆賞を受ける。「卓上花」「月ヶ瀬」を制作。
1957年(昭和32年)-「赤衣の婦人」を制作。
1958年(昭和33年)- 日本橋髙島屋において180点出品の大規模な回顧展を開く。「熱海風景」
    を制作。
1960年(昭和35年)- 5月 渡仏。「薔薇」「ノートルダム」「エッフェル塔」など23点を制作。
1961年(昭和36年)- 9月 髙島屋において滞欧作展開催。美術出版社よりそれまでの自身の画業を
    集大成した画集が出版される。
1962年(昭和37年)-「立てる舞妓」など、舞妓をモデルにした連作を描く。
1963年(昭和38年)- 週刊誌の表紙のため「少女」を制作。12月 東京芸術大学教授を定年退職し
    牛島憲之に教授職を託す。渋谷区に居を移す。
1964年(昭和39年)- 富士山を描き始める。再び妻をモデルにした「三味線」を制作。
1965年(昭和40年)- 自身の生い立ちと芸術論を述べた初めての著書『美に生きる — 私の体験的
    絵画論』を講談社より出版。薔薇の連作を始め、「花」を制作。
1966年(昭和41年)-「滝富士」「海」「裸婦」を制作。
1967年(昭和42年)-「赤富士」を制作。第37回朝日賞受賞。11月 文化勲章受章。
1968年(昭和43年)- 富士山と並行して、波打ち際の怒涛を題材にした連作を手がける。
    『週刊朝日』の依頼により銀座の街頭を描く。
1969年(昭和44年)-「ばら」「怒涛」「花帽子の女」を制作。
1970年(昭和45年)- 富士山の連作「朝霧富士」3点を制作。八百屋お七に扮した女優の菊ひろ子
    を描く。
1971年(昭和46年)- 国語問題協議会会長に就任。正かなづかいの復権を訴えた著書『国語の建設
    』を講談社より出版。
1972年(昭和47年)- 講談社より刊行予定の画集のため、初めて自画像を描く。
1973年(昭和48年)-「少女」を制作。
1974年(昭和49年)- 前々年から展覧会に旧作を多数出品。
1975年(昭和50年)- 3月29日 慈恵会医科大学付属病院に入院。6月23日 肝臓癌のため79歳で    
    没した。病床で描いた「薔薇」が絶筆となった。贈従三位(没時叙位)。6月28日 野口
    弥太郎が葬儀委員長を務め葬儀が営まれた。

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