<その5>に戻る


林武 「薔薇」 10号扇面



































   
 作家名  林武
 タイトル  薔薇
 技法  ガッシュ
 サイズ  10号 23.3x49/5cm扇面 
 額サイズ  47.0x72.0cm
 サイン  画面右下にサイン、印譜。額縁裏面に共シール貼付。東京美術倶楽部鑑定書付鑑定書あり。
 状態  作品状態は良好。額状態は良好。差し箱。
 略歴


(作家略歴)
1896年 東京に生まれる。
1920年 日本美術学校に入学、同年中退。
1921年 第8回二科展で「婦人像」が初入選、樗牛賞受賞。
1922年 第9回ニ科展でニ科賞受賞。
1926年 協会会員となり佐伯祐三、里見勝蔵らと活動する。
1930年 二科会を脱退。独立美術協会創立に参画する。
1949年 第1回毎日美術賞受賞。
1951年 東京芸術大学の教授に就任。
1959年 日本芸術院賞受賞
1967年 朝日文化賞受賞、文化勲章受章。
1975年 死去。享年79歳。

(画家経歴)
1896年(明治29年)- 12月10日、東京市麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。
    武の父・甕臣(みかおみ)は国語学者、祖父・甕雄(みかお)は歌人、曽祖父・国雄は
    水戸派の国学者だった。
1909年(明治42年)- 牛込区余丁町小学校を卒業。同小学校では東郷青児が同級生で、担任の先生
    だった本間寛に東郷とともに画才を見出される。
1910年(明治43年)- 早稲田実業学校に入学、学費が払えず実家が営んでいた牛乳販売店で労働
    しながら通学するが、体調を崩して中退する。
1913年(大正2年)- 東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。
1917年(大正6年)- 新聞や牛乳の配達、ペンキ絵を描いたりして生計を立て画家を志す。
1920年(大正9年)- 日本美術学校に入学するが、翌年には中退する。
1921年(大正10年)- 第8回二科展にて初入選し、樗牛賞を受ける。渡辺幹子と結婚。
1922年(大正11年)- 妻幹子をモデルにした「本を持てる婦人像」を制作。
1923年(大正12年)- 関東大震災被災のため、神戸に移住する。
1928年(昭和3年)-「横たわれる女」制作。
1930年(昭和5年)- 二科会を脱退。独立美術協会を創立する。「裸婦」を制作。
1934年(昭和9年)- 3月 渡欧。フランス(パリ)・ベルギー・オランダ・イギリス・ドイツ・
    スペインを訪れる。「コワヒューズ」を制作。
1935年(昭和10年)- 東京都中野区新井町に居を移す。「裸婦」を制作。
1937年(昭和12年)- 7月 松坂屋で滞欧作展を開く。
1938年(昭和13年)-「室戸岬風景」を制作。
1940年(昭和15年)- 皇紀2600年奉祝美術展覧会に「肖像」を出品。
1942年(昭和17年)-「静物」を制作。
1944年(昭和19年)- 持病の胃潰瘍が悪化、静養をかねて西多摩郡網代村にこの年から2年間
    疎開する。
1946年(昭和21年)-「うつむき女」を制作。
1948年(昭和23年)-「静物」を制作。この年から坂上星女をモデルにした連作を描き始める。
1949年(昭和24年)-「梳る(くしけずる)女」、「静物(鯖)」を制作。第1回毎日美術賞を受ける。
1950年(昭和25年)- 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に前々年制作の「静物」
    を出品。「星女嬢」を制作。
1952年(昭和27年)- 安井曾太郎の後任として、東京芸術大学美術学部教授に就任。
1953年(昭和28年)- 風景に題材を求め十和田に滞在。「十和田湖」の5点の連作を生む。
    「横向き少女」を制作。
1954年(昭和29年)-「斜面の顔」「ネッカチーフの少女」を制作。
1956年(昭和31年)-「伏目の女」で現代日本美術展大衆賞を受ける。「卓上花」「月ヶ瀬」を制作。
1957年(昭和32年)-「赤衣の婦人」を制作。
1958年(昭和33年)- 日本橋髙島屋において180点出品の大規模な回顧展を開く。「熱海風景」
    を制作。
1960年(昭和35年)- 5月 渡仏。「薔薇」「ノートルダム」「エッフェル塔」など23点を制作。
1961年(昭和36年)- 9月 髙島屋において滞欧作展開催。美術出版社よりそれまでの自身の画業を
    集大成した画集が出版される。
1962年(昭和37年)-「立てる舞妓」など、舞妓をモデルにした連作を描く。
1963年(昭和38年)- 週刊誌の表紙のため「少女」を制作。12月 東京芸術大学教授を定年退職し
    牛島憲之に教授職を託す。渋谷区に居を移す。
1964年(昭和39年)- 富士山を描き始める。再び妻をモデルにした「三味線」を制作。
1965年(昭和40年)- 自身の生い立ちと芸術論を述べた初めての著書『美に生きる — 私の体験的
    絵画論』を講談社より出版。薔薇の連作を始め、「花」を制作。
1966年(昭和41年)-「滝富士」「海」「裸婦」を制作。
1967年(昭和42年)-「赤富士」を制作。第37回朝日賞受賞。11月 文化勲章受章。
1968年(昭和43年)- 富士山と並行して、波打ち際の怒涛を題材にした連作を手がける。
    『週刊朝日』の依頼により銀座の街頭を描く。
1969年(昭和44年)-「ばら」「怒涛」「花帽子の女」を制作。
1970年(昭和45年)- 富士山の連作「朝霧富士」3点を制作。八百屋お七に扮した女優の菊ひろ子
    を描く。
1971年(昭和46年)- 国語問題協議会会長に就任。正かなづかいの復権を訴えた著書『国語の建設』
    を講談社より出版。
1972年(昭和47年)- 講談社より刊行予定の画集のため、初めて自画像を描く。
1973年(昭和48年)-「少女」を制作。
1974年(昭和49年)- 前々年から展覧会に旧作を多数出品。
1975年(昭和50年)- 3月29日 慈恵会医科大学付属病院に入院。6月23日 肝臓癌のため79歳で没した。    病床で描いた「薔薇」が絶筆となった。贈従三位(没時叙位)。
    6月28日 野口弥太郎が葬儀委員長を務め葬儀が営まれた。

 評価
 発送