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ポール・デルヴォー 「月の女」 12号サイズ




















   
 作家名   ポール・デルヴォー
 タイトル   月の女
 技法   版画 技法 ;リトグラフ
 サイズ   (12号) 59.5x43cm
 額サイズ   90.0x71.1cm
 サイン   画面右下にサイン。 左下にエディション;. 43/75 
 状態   作品の状態は、良好です。 額装の状態も、概ね良好です(小キズあり)。
  黄袋・段ボール箱付き。

  Fondation Paul Delvaux の証明書(コピー)および
  プリンス画廊の証明書が付属します。
 略歴


ポール・デルヴォー or デルボー Paul Delvaux 1897〜1994 ベルギーの画家。
1897年9月、ベルギー リエージュ州ユイ近郊の母の実家で誕生。 父は裕福な弁護士で、ブリュッセルの裁判所に近いアルブル通りに妻と住んでいた。デルボーの「生家」の絵(1967制作)

1916年 両親の薦めで、ブリュッセルの王立美術アカデミーの建築学科に入学。 しかし数学の成績が悪く落第し、建築の勉強を放棄し、絵画を描き始める。 1918年 9ヶ月の兵役の後、美術科に入り、風景画の基礎を学ぶ。 
1924年(27歳) 卒業。 後期印象派のグループ「ル・シオン」の展覧会に出品した作品が売れ、以降両親の家にアトリエを持ち、画家としての活動に入る。 翌1925年、「家族の肖像(Portrait of family)」をロベール・ジロンとの二人展で発表。
「ベンチ」
1930年頃のデルボー1927年(30歳) 家族をテーマにした2番目の大作「ベンチ(Bench)」を描く。 パリでの『ベルギーの画家たち』展に出品。 1928年 現代美術の諸傾向に触れ、裸婦が重要なモチーフになっていく。 
1929年 アンヌ・マリー・ド・マルトラールに恋するが、両親に反対される。

1931年 親友のクロード・スパークが『カイエ・ド・ベルジック』に長文のデルヴォー論を掲載。破棄された「眠れるヴィーナス」
1932年 ベルギーの見本市でのスピッツナー博物館の展示物を見て、骸骨や裸婦のデッサンを多く制作し、「眠れるヴィーナス(Sleeping Venus)」を描く(但し、のち作品を破棄してしまう)。 批評家アルベール・ヴァン・ウーゲンベントが美術誌でデルヴォーの作品にシュルレアリスム的傾向があることを指摘。 年末に母が死去。
「女と石」1934年 ブリュッセルで「ミノトール展」が開かれ、シュルレアリスムの絵画が多く展示され、デルヴォーはデ・キリコ、マグリットの作品に強く刺激され、キリコに刺激され「女と石(Woman and Stone)」を描く。
1936年、ブリュッセルで個展。 同時期にルネ・マグリットの個展も開かれる。 「レースの行列(Parade of Lace)」を描く。

1937年(40歳) シュザンヌ・ピュルナルと結婚。 ロンドンで個展を開き、17点を出品。 イタリアへ初の旅行をする。 表現主義者、シュルレアリストなどからなるベルギーのグループ『コンパニョン・ド・ラール』が結成され、デルヴォー、マグリットもそのメンバーとなる。「夜の叫び」
1938年 パリで刊行の『シュルレアリスム簡易辞典』に「夜の叫び(The call of night )」が収録される。 パリの『シュルレアリスム国際展』に出品。 
Otto Lidenbrock of Jules verne, illustrated by Edouard Riou1939年 『月の位相(Phases of the moon)』シリーズの第一作を描く。 ジュール・ヴェルヌの小説に登場するオットー・リーデンブロックが初めて画面に描かれる。

1941年 前年のドイツ軍によるベルギー侵略の数日前より描き始めた「不安な町(Worried City)」を完成。 戦争中は自然史博物館に通い、骸骨をデッサンする。「スピッツナー博物館」
1942年 「人魚の村(Village of Sirens)」を描く。 この頃から同性愛がしばしば描かれるようになる。 翌1943年 大作「スピッツナー博物館(Spitzner Museum)」を描く。 この作品には、5人の友人たちの肖像が描き込まれる。
1944年 「眠れるヴィーナス(Sleeping Venus)」「貝殻を拾う骸骨(Skeleton to pick up shell)」を描く。 夏、占領下のブリュッセルを逃れ、郊外のリクサンサールに移る。 解放後、帰る。
1945年 ベルギーの映画監督アンリ・ストルクが『デルヴォーの世界』を制作し、1948年ヴェネツィア映画祭で受賞している。
1946年 ニューヨークで個展。 この年より汽車をモティーフにした作品が多く描かれる。 「鉄の時代」

1952年 デルボー夫妻1947年(50歳) ジャン・ジュネの戯曲によるバレエ『アダム・ミロワール』の舞台装置を手がける。 以前愛し合ったアンヌ・マリー・ド・マルトラールと再会。 
1949年 ニューヨーク、ブリュッセル、パリで個展が相次ぐ。 エミール・ランギの評伝『ポール・デルヴォー』が出版される。
1950年 ブリュッセルの国立美術建築学校の絵画部門の教授に任命され、1962年まで教鞭をとる。

1952年 オステンドの保養所のための壁画を人魚を主題に選んで制作。 デルヴォーの最初の壁画となる。 アンヌ・マリー・ド・マルトラールと再婚する。

ペリエ邸壁画を描くデルボーとペリエ氏1954年 ベルギー航空社長ジルベール・ペリエ邸の壁画を制作(1956年に完成)。  この年から汽車、電車が集中的に描かれるようになる。 「キリストの磔刑」この年ヴェネツィア・ビエンナーレが『幻想絵画』を特別展示として開かれたが、デルヴォーは招待されなかった。 そのころデルヴォーが骸骨によるキリストを描いていたため、ヴェネツィアの枢機卿(のちのヨハネス12世)がこれを非難したためであった。

1957年(60歳)
1959年 ブリュッセルのパレ・デ・コングレの長さ41メートルの壁画「地上の楽園」を制作。

1961年 日本国際美術展の特別展示『ベルギー絵画の10年展』に出品。
1962年 オステンド美術館で回顧展。 開会の翌日市の助役らが抗議を行い、不道徳とみなされる何点の撤去を要求する。 結局、回顧展への入場は21歳以上のに制限された。
「影」 125 x 231 cm 1965年制作
1964年 この頃から作品の構図によりモニュメンタルな性格が表れるようになる。また、背景に海がよく描かれるようになる。
1965年 ベルギーの王立美術学校の美術部門の長に任命される。
1971年 デルボー1967年(70歳)

1973年 オランダのレンブラント賞を受賞。
1975年 東京、京都の国立近代美術館で、日本初の『ポール・デルボー展』が開催。
1976年 フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が授与される。1981年 with Andy Warhol
1977年(80歳) アカデミー・フランセーズの外国人会員に選ばれる。
1978年 ブリュッセル地下鉄のブルス駅に壁画を制作。 
1981年 ブリュッセルで『アンディ・ウォーホルによるポール・デルヴォーの8点の肖像画』展が開催される。
1982年 オステンドに近いサンティスバルドにデルヴォー美術館開館。
1983年 2度目の大規模なデルヴォー展が日本で開催される。
1987年(90歳) つづいて1988年 日本で回顧展。

1994年 没す。 97歳。

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